「キリストの十字架と復活」(私たちの義のため) KFG志木キリスト教会 牧師 松木 充 牧師
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キリストの十字架と復活は、私たちの罪の赦し、永遠のい のち、救いの根拠です。この十字架と復活によって新しいいのちが与えられ、神に愛され、生かされ、守られ、導かれていると確信して地上を歩 み、永遠のいのちの希望を持って天国へと旅立つのです。 このことばを書いたパウロは、旧約聖書を信じるユダヤ教の若き律法学者、教会の迫害者でした。しかし、迫害のためにダマスコに行き、その郊 外でキリストに出会い、キリスト者となり、キリストの伝道者となりました。今日の世界に広がったキリスト教の基礎を据えた人と言って良いで しょう。 そのパウロが書いたのは、まさに、キリストの十字架と復活が何のためだったのかを示したことばです。 「義と認められるため」とあります。それは、直訳すれば「義の宣言のために」。私たちは罪ある者です。しかし、神から無罪宣告を受けて、救 われ、永遠のいのちを受けるためにキリストは死なれ、復活されたのです。 罪にはさまざまな種類がありますが、その根本は、まことの神を神としないことです(1章18節~23節、28節~32節)。その間には同性 愛の記述も あります。テキサスで同性愛の女性に会いました。ボーイフレンドの虐待から、男性不信に陥ったとのことでした。自分に犯す罪、人に犯す罪…。 神の前に罪がないと主張できる人はいません(3章10節、23節)。 しかし、私たちは、罪を帳消しにされ、無罪宣告を受けて義とされることができます。それは、 ①十字架による罪の贖い、 ②復活による贖いの保証、 ③十字架と復活によって開かれた、信仰による義の道に よってです。 1.十字架による罪の贖い(25a節) 私たちは、キリストの十字架の死によって、罪が赦され、義とされます。 キリストの十字架は、私たちの罪のためでした。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され…」と言われます。「罪のために」は、罪のゆえ に、つまり私たちの罪を負うという理由で、キリストは十字架にかかられたのです。この十字架のゆえに、私たちは罪を赦され、義とされるので す。 ここでの「罪」(パラプトーマタ=複数)とは、逸れること、踏み外すことを意味します。聖書で最も一般的に罪を意味するギリシャ語「ハマル ティア」も、ヘブル語「ハッタ―」も、的を外すことや道を逸れること、道に迷うことを意味します。故意でなくとも、神のみこころにかなわない ことはすべて罪なのです。 キリストの十字架は、そのような罪に対する神の怒り・刑罰を一身に引き受けたものです。さらには、罪の代価を支払って、滅びから買い戻して 下さったものでもあります。そこに救いがあり、神との和解、平和があるのです。 避雷針が落雷を一身に引き受けるように、また、捕われた愛する者を買い戻す身代金を支払う親のように、キリストは十字架にかかられました。 2.復活による贖いの保証(25b節) 私たちは、キリストの復活による罪の贖いの保証によって、罪が赦され、義とされます。 「私たちが義と認められるために、よみがえられた」と言われます。先述のように、「義と認められるために」は、「義と宣言することのため に」。十字架の贖いで義とされるはずですが、復活が義と認められるためだと言うのは、十字架の贖いの有効性が復活で証明されたからです。 キリストの復活を荒唐無稽と考える人も多いでしょう。しかし、どう考えても復活がなければ辻褄が合わないことがあります。 ①空の墓、 ②多数の目撃者の存在(Ⅰコリント人への手紙第一 15章5~8節) ③弟子たちの宣教・殉教 ④弟子たちの宣教を止められなかったユダヤ教指導者たち ⑤パウロのような大迫害者の回心。パウロに現れたのは復活のキリストです(コリント人への手紙第一 15章8節)。 映画『クオヴァディス』の原作者シェンキェビチ(ポーランドの作家、1896年刊行)は、キリスト教は嘘だと聖書を徹底的に調べ、キリスト の復活を否定できず、キリスト者となり、『クオヴァディス』を書きました。 大抵の人は、精々聞きかじりの知識で、聖書をろくに読んだこともなくて、キリストの復活を一笑に付します。徹底的に聖書を調べたら良いので す。このように人の罪を徹底的に赦す教えが他にあるかどうか、これほど否定できない歴史的事実の上に立った信仰があるかどうか、調べたらよい のです。 3.信仰による義(23、24節) 私たちは、キリストの十字架と復活を信じる信仰によって罪が赦され、義とされます。 人間の努力で罪を帳消しにはできません。事実を消すことはできません。また、神が完全な罪の贖いを備えて下さったのに、それに何か人間のわ ざを付け加えることは、神の恵みとしての救いを拒むことです。プロのシェフが心を込めて用意してくれた食事に、素人が「申し訳ないから」と何 か作って付け足すのは、せっかくの好意を台無しにします。 信じるというのは、必ずしも疑いが全くない状態ではありません。信頼して、お任せすることです。神に人生をおゆだねすることです。乗り物に 乗るとき、事故が起こると思って乗りますか。それより確かなのが神の救いです。なぜなら、十字架と復活という、歴史的事実が保証だからです。 Nさんご夫妻は、ご主人が婿養子でした。脳性麻痺のお子さんが不思議にも幼時にイエス様を信じて召天され、おばあちゃんと奥様が信仰を持ち ましたが、ご主人は酒浸り…。やがて、おばあちゃんは他界。ほどなくその信仰を受け継いでご夫妻の子どもたちも信じて受洗。やがてご主人も我 を折ってこれまでの罪を悔い改め、真面目なキリスト者として生涯を過ごし、幸せに天に召されて行きました。キリストの十字架と復活にこそ、ど んな罪も赦し、新しいいのちに生かし、永遠のいのちを与える力があるのです。 |