「誇る者は主を誇れ」(神の知恵、義と聖めと贖いなる主) KFG志木キリスト教会 牧師 松木 充 牧師
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私たちは、それぞれ誇りに思うものがあります。自分の 何か、子ども、持ち物、自分の親、先生、上司などの尊敬する人…。貧乏すら誇りになり得ます。私たちは、何を誇りにして生きているでしょう か。 「誇る者は主にあって誇れ」(新改訳二版)は、三版では「誇る者は主を誇れ」とされています。ギリシャ語「誇る」(カウカオマイ)の用法か ら、多分三版が良いのだろうと思います。 「誇る」は、悪い意味でも用いられますが、主ご自身、あるいは主の救いを大いに喜ぶ意味でも用いられています(ローマ人への手紙5章2~3 節)。 使徒パウロが書いたⅠコリントですが、コリントには、自分の知恵を誇り、人間(宣教者→分派)を誇り、賜物(自分)を誇る人たちがいまし た。しかしパウロは、「誇る者は主を誇れ」(三版)と言います。私たちの救い主イエス・キリストこそ、キリスト者が誇るべきただひとつのもの です。 先日私の自宅を訪問してきた仏教系新興宗教の人は、日蓮上人を神格化して誇っていました。神について、キリストについて、罪からの救いにつ いてお話ししてお帰りいただきましたが、私たちが主イエスをあれほど誇りにしているかどうか、考えさせられる一面もあったことです。私たちは しばしば、遠慮がちに、あるいは申し訳なさそうに、小さい声で「私はクリスチャンです」と言うような者ではないでしょうか。 ことばに出さなくても、私たちは主イエス・キリストを誇りとすべきです。なぜでしょうか。 それは、 ①主が神の知恵となられたから、 ②主が私たちの義と聖めとなられたから、 ③主が私たちの贖いとなられたからです。 1.神の知恵なるキリスト 私たちは主を誇るべきです。それは、私たちの救い主イエス・キリストこそ、神の知恵だからです。 その知恵は、まず十字架の愚かさにあります。18節「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の 力です。」 十字架という救いの方法とそのメッセージ(福音)の愚かさ――しかしそれは、人を救う神の力です。 21a節「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」 その救いは、この世の知恵によっては知る ことのできないものです。 21b節「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」 これは、宣教の方 法、語り方というより、福音のメッセージの内容そのものの愚かさです。しかし、神はこのキリストによって人をお救いになるのであり、キリスト は神の力、神の知恵であり(24節)、神の愚かさは人よりも賢いのです(25節)。 その知恵は、救われた者たちの神の選びにもあります(26~28節)。神は、不思議にも、この世で取るに足りない者を先にお選びになりまし た。それは、神の御前でだれをも誇らせないためです(29節)。 この世で活躍した有名な人がキリスト者となるケースもあります。しかし多くの場合、その最盛期ではなく、挫折してからです。それも、人が誇 らないために、へりくだった時にお救いになる神の知恵でしょう。 2.私たちの義と聖めなるキリスト 私たちは主を誇るべきです。それは、私たちの救い主イエス・キリストこそ、私たちの義と聖めだからです。 まず、私たちの義ですが、それは、キリストによって罪が赦されることです。罪の事実は消えません。記憶も消せません。しかし、キリストの十 字架のゆえに、神は赦して下さり、義とされるのです。 キリストは、私たちの義だけでなく、聖め(ハギアスモス)でもあります。「聖」の根本的意味は、分離することです。聖める行為、聖められた 状態を意味します。従って、「聖い」とは、①罪・世から分離していること、②神へと分離していること(神の所有)、③神の専用であることで す。旧約の祭司の帽子には、「主に聖なるもの」という札が着けられていました。 私たちは、自分の力で罪を帳消しにしたり、聖くなったりはできません。神が、キリストによって義とし、聖として下さるのです。 修行をしたら罪が消えるでしょうか。立派な人間になったら、傷つけた人が元に戻るのでしょうか。極端な例ですが、殺人犯が反省、後悔したら 殺された人が生き返るのでしょうか。罪は消えません。ただ、神のあわれみにすがるほかないのです。 3.私たちの贖いなるキリスト 私たちは主を誇るべきです。それは、私たちの救い主イエス・キリストこそ、私たちの贖いだからです。 義とされ、聖なるものとされるのは、キリストの十字架によります。ここでは、キリストの十字架が「贖い」と言われます。 「贖い」(アポリュトローシス)とは、代価、身代金(リュトロン)を払って買い取ることです。私たちは、罪と世と滅びと悪魔の奴隷でした が、キリストがいのちの代価を払って買い取って下さったのです。 復活は、贖いが確かである保証です。この贖いによる義と聖を受け取るのは、信仰です。そこから、義とされ、聖とされた者にふさわしい歩みが始 まり、神の恵みの力によって実際にきよくなっていくのです。 私たちは、自分の力で正しい人、聖い人、立派な人になろうとしてはいないでしょうか。十字架の贖いにこそ、義とする力、聖とする力がありま す。罪に勝つ力がないと悩んだり嘆いたりするでしょうか。人間に力がないからこそ、キリストを信じたのではないですか。十字架を見上げましょ う。 |