「召しにふさわしい歩み」


     KFG志木キリスト教 会  牧師  松木 充 牧師
 



「さ て、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召さ
 れたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさ
 い。」

         (エペソ人への手紙4章1節)




選出された総理大臣、横綱、大関に昇進した力士などは、 所信表明演説や、口上を述べたりします。救われて新たな人生を始めるキリスト者も、神の恵みにふさわしい覚悟、歩みをしていくべき者です。
 エペソ人への手紙の著者パウロは、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」と言います(1節)。
 エペソ人への手紙は、ピリピ書、コロサイ書(ピレモン書)とともに「獄中書簡」の一つであり、ローマの獄中で書かれたと言われています。
 エペソ書のテーマは「キリストのからだなる教会」であり、キリストにおける選び(一章)、キリストにおける救い(二章)パウロの宣教の務め (三章)と書き進め、四章から教会の一員としての歩みを教えます。「召し」(call)とは、神が私たちをお呼びになって、恵みへ、永遠のい のちへ、神の民=キリストのからだへと導き入れて下さったこと、救いのことです。
 それでは、召された者=救われた者にふさわしい歩みをするには、どうしたら良いのでしょうか。この1節から16節は、内容が豊かですが、概 観しながら召しにふさわしい歩みを探っていきたいと思います。それは、おおよそ次のようにまとめられるでしょう。
 ①御霊による一致、
 ②キリストのからだの建て上げ、
 ③愛と知識における成長です。

1.御霊による一致(1~6節)

 召しにふさわしい歩みとして、まず御霊による一致が勧められます。 2~3節にはいろいろなことが言われ、一つ一つのことばが重い意味を持っていますが、要するに御霊によって一致することを勧めています。 御霊による一致と言っても、それは、皆が全く同じになることではありません。この後に、さまざまな教会における役割が挙げられていることでも、それは明らかです。 一致を勧める根拠として、パウロは、キリストのからだは一つ、御霊は一つ、召された望みは一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、父 なる神は一つ(4~6節)と言います。つまり、同じキリストにあって一つ、同じ御霊にあって一つ、同じ希望(永遠のいのち)にあって一つ、キ リストを信じる信仰において一つ、キリストと結び合わされるバプテスマにおいて一つ、お一人の神にあって一つ――。要するに、キリストを信じ て救われた者たちの信仰における一致を勧めていると言えるでしょう。 教会の中にはいろいろな視点、考え方、意見があってよいのです。そのような多様性は、むしろ教会にとって大きな力です。キリストとそのご目的において一致することが重要な のです。アンテオケの教会にも、多種多様な人々がいました。しかし、みこころに従うこと、キリストを宣べ伝えることでは一致していました(使 徒の働き13章1~3節)。

2.キリストのからだの建て上げ(7~12節)

 次に、キリストのからだの建て上げる歩みが勧められます。 それは、賜物による奉仕の働きによってです。キリストは、受肉、十字架、復活、昇天というみわざを通して(9~10節)、「捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」 と言われます(8節)。そして、分け与えられた賜物に従って、ある人を使徒、ある人を預言者、伝道者、牧師、教師などとしてお立てになりまし た(11節)。「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」です(12節)。 それでは、そのような働きをさせる賜物は、どのようにして与えられるのでしょうか(→7節)。まずそれは、キリストが与えるものです。さらにそれは、賜物の量りに従って与 えられた「恵み」です。つまり、ひとりひとりにふさわしい賜物が、キリストからの「恵み」として与えられるのです。 いつ賜物が与えられるかについては、明確に語る箇所はありませんが、「賜物」(カリスマ)は「恵み」(カリス)に関係する語なので、キリストの恵みを受けた時、つまり救わ れた時ではないかと思われます。 教会では、それぞれが違った働きを持ちます。また、同じ役割を持つ人たちでも、その人にふさわしい働き方があります。同じ説教者でも、聖書の見方や、語り方等には個性があ ります。そして、そのような個性に合わせて与えられた賜物によるさまざまな奉仕が、教会を建て上げていくのです。

3.愛と知識における成長(13~16節)

 さらに、愛と知識における成長が勧められます。信仰と神の御子に関する知識の一致は、成長のためには不可欠です(13節)。それは、キリス トの満ち満ちた身たけにまで達するためです。もちろん、それは大変高い目標ですから、生涯をかけた成長が勧められているのは間違いないでしょ う。それは、聖書解釈が細部まで完全に一致するということでもないでしょう。御子イエス・キリストを信じる信仰と知識における一致です。それ は、人の悪だくみや悪魔の策略によるさまざまな教えの風に吹き回されたりしないためです(14節)。当時の教会の問題は、外からの迫害と、外 から入って来る、あるいは内側に起こる異端でした。しっかりとした救い主への信仰と知識は、そのような教えにかき乱されないで成長していくた めに必要です。 そして、パウロが語ったギリシャ語では、「お互いの愛において」が16節を締めくくります。キリストにおける愛こそが成長の要因かつ成長の証し、私たちが地上でめざす目標 なのです。 キリスト者の成長は、一人の成長に終わりません。いつもお互いの成長であり、愛のないところにはキリスト者の成長、教会の成長はないのです。弱い者をかばう愛、初心者を気 遣う愛、試練にある兄弟姉妹のために祈る愛…。愛がお互いを成長させ、教会を成長させます。あらゆる信仰の知識は、愛における成長につながっ ていくべきものなのです。





 ホーム