「いのちのパンなるキリスト」(少年のパンと魚を五千人へ) KFG志木キリスト教 会 主任牧師 久保 真理 牧師
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二千年前のガリラヤ地方は、人々は貧しい生活に明け暮れ ていた。イスラエルはローマ帝国に支配され、自分たちの思うような生活ではなかった。 今の日本の生活は一見豊かになった様に見えるが、貧富の差があり、全国の小中高校の実態は2016年度の統計によれば、いじめは十万件も増 え、32万3808件で、最多と言う。自殺した子どもは244人で、過去最多とのこと。その日の食事もままならない子どもたちも結構いるとも 聞こえてくる。それに簡単に人が殺される事件も多い。昔も、今も、神から離れた世は暗く、悲しい。 1.深くあわれむ神 (マタイの福音書147章14節/マルコの福音書 6章34節) 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイの福音書1章28節)と、群集に語りかけ、人々は淋しい荒 野であっても、大群衆が集ってきた。 イエスは彼らを見て、「深くあわれみ」(断腸の思い、腸をよじる気持)で、人々へ愛情を示した。そのしるし(奇跡)として「病人たちに」いや しのわざをすでに行なっていた。 長い時間、群集(男の数だけで五千人。女や子どもを加えると少なくとも一万五千人以上)が何も食べないで、飢えた状態で、イエスのもとを離れ ていこうとしない人々のために、イエスはそばにいた弟子ピリポを試して、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」(5)と 問いかけている。すでにイエスが神の子で、力ある方であると知っていても、ピリポの信仰は統計的、計算的であった。「めいめいが少しずつ取る にしても、二〇〇デナリのパンでは足りません。」(7)と、答えて、イエスへの期待も、信仰も働いていなかった(一デナリ:一日の労賃、つま り一年の三分二の賃金があっても無理とのこと。)。 私たちは彼のように冷静に計算をして、事務的に行動をとっても、主イエスへの信仰がなければ、飢え渇いた人々を救うことは出来なかったのであ る。 2.少年が持っていたパンと魚 (9) やがて弟子たちのリーダー的な存在となるペテロを導いた兄弟アンデレが、少年の持っていたお弁当(きっと母親が、子どものために作ったもの) を手にしていた。 きっと、アンデレは少年の心を捕え、彼にとって、大切なお弁当を、手離してイエスのみ手に渡すことが出来たことはすばらしい。 一方、アンデレは少年の「大麦のパンを五つと、小さい魚を二匹」を手わたしながら、「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりま しょう。」と、彼の信仰は心ゆらいでいる。それでも、彼は楽天的な、解決的にパンと魚を持参した。たとえ、わずかでも、主イエスに期待できる 人は幸いである。 この少年はアンデレと共に、イエスが「パンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。・・・」(11)その時、五つの パンも二匹の魚(塩漬)も、弟子たちの手を通して、草原に座っていた男も女も、そして子どもたちも、「『彼らにほしいだけ分けられた。』そし て、・・・十分食べ」、「余ったパン・・・十二のかごがいっぱいになった。」(11~13)のを見た。 まさに、人々は、イエスの奇跡的なわざを通して、充分にパンと魚を食べ、満腹したのである。ただ、飢えを満たしただけでなく、心も満たされた のである。その結果、「人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。」(14) イエスを神の子と認め、告白する時、永遠のいのちである方を受け入れたのである。 3.パンの給食の意味(35) 「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇く ことがありません。』」 旧約聖書、エリヤの時代にシドンのツァレファテのやもめの所に預言者エリヤが主に導かれてやってきた時、ひどい飢饉のために「かめの中に一握 りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、 それを食べて、死のうとしているのです。」(列王記第一17章8~16節)と言うことであった。 ところがエリヤはパン菓子をそれで作り、持って来ることを要請し、実行させた。その結果、「エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および 彼女の家族も、長い間それを食べた。」・・・「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」、不可能をあざ笑いて、可能となすのは信仰 である。生ける真の神は、信じる者にしるし(奇跡)をもって、イエスこそ、預言された真の救い主であることを示している。 パンや魚の糧は肉体の飢えを満たし、肉のいのちを持続させるが、奇跡をもって答えて下さる「いのちのパン」なるキリストは、私たちのために十 字架上に肉を裂き、私たちの罪を贖い、三日後復活して、信じる者に、永遠のいのちを与えて下さる恵みの主である。 大切なことは、永遠のいのちのパンなるキリストを内住させることが、神の力によるみわざであり、この御方を食する日々であることが求められて いる。(ヨハネの福音書20章31節参照) |