高く聖なる神」(砕かれた者を活かす)

      KFG志木キリスト教 会  主任牧師  久保 真理 牧師
 



「い と高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖
 ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高
 く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人ととも
 に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心
 を生かすためである。』」

        (イザヤ書587章15節)
         




ギター暦70年、芸能界での活躍60年を迎えるある有名 なギターリストが、一年前のクリスマスに、音楽プロデューサーに誘われて、初めて、教会のクリスマス礼拝に奥様と息子さんも一緒に行くと言う ので、家族3人とプロデューサーとで出席した。
まず、礼拝の「気がすばらしかった。」(多分、祈りに満ちた主の臨在にふれたのであろう。)賛美ではじまり、賛美で終わる集会に、「涙がどっ と流れ出てきた。喜びが込み上げ、誰かと出会えたような感じがした。」とのこと。続いて、元旦礼拝にも出席し、継続して礼拝に出席して、つい に、4月のイースターにご夫婦で洗礼を受け、「私に、父なる神という、新しいお父さんができたのです。」(クリスチャン新聞「福音版」12号 参照)と、あかし分を読んだ。

.聖なる神 (○参55章8,9節)

神が人格的存在であると共に、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」(六3)とイザヤが神の聖性に触れて、ひれ伏して祈ったように、聖い神 である。
罪、汚れのある者は聖なる神に近づくことは出来ない。ペテロは「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆ る行いにおいて聖なるものとされなさい。」(レビ記11章44節、45節参照)と言う。
かつて、モーセがミデヤンの野で羊飼いをしていた時、神の山ホレブのすそで、柴が火で燃えていたのに「焼け尽きなかった。」と、主なる神が 「モーセ、モーセ」と呼んだ時、聖なる神は「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地であ る。」(出エジプト記3章5節~)「靴(サンダル)を脱げ。」と言うのは、神の前に立つ時、世の生活の延長線で立つのではなく、脱ぎ捨てて (明け渡され)、砕かれた姿勢が求められている(ローマ人への手紙12章10参)。
マルチン・ルターが宗教改革に関わって、五百周年記念になるが、ルターが修道士になったのは、ある日、友と野を歩いていた時、友は雷に打たれ て、死んだ。その時、思わず、「助けて下さい!私は修道士になります。」と祈ったと、きいている。
いずれにしても、モーセは「燃える火」に触れて、み声をきき、神に全き明け渡しをしたのである。
また、ダビデの時代、敵(ペリシテ)にうばわれた「神の箱」(神の臨在の象徴)が返される道中、その運搬の牛車にのせ(祭司がかつぐもの)、 大ゆれした時、ウザと言う者が手を伸ばして、押さえた時、彼は打たれて、死んだ(サムエルき第二6章1~7節)。いかに神の聖なるものに関わ る者は聖別(聖絶)され、聖なる者であるべきかを問われている。(―昔のある聖徒は「聖きは力である。」と言っている。)。

2.罪を悔い改め、心砕かれること。

神を迎えるための備えは(1~14)、偶像(当時、モレク礼拝と言う偶像崇拝があり、子どもをほふったり、神殿娼婦がいて、祭儀的性行為があ り、イザヤは「寝床」〈4回〉と言う象徴的言葉を語っている。)を取り除き、罪を離れ、神への道を整えるべきであった。―今の世においても、 多くの人々が神ならぬ者を神とし、肉的欲情にふりまわされ、滅亡への道を歩んでいる。
高く、聖なる神は、人々のために憐れみ、その神のひとり子を世に遣わし、聖なる僕として、あらゆる悩み、苦しみを通り、卑りくだった人、心砕 かれた者になって下さった。
預言者イザヤは「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。・・・、彼の打ち傷によって、私たちはいやされ た。」(イザヤ書53章5,6節)と、この預言が成就する七百年も前に、語っていた。
聖なる御方が卑りくだり、仕える者の姿になり、人となり、十字架上に砕かれて、私たちを新創造し、この主なる神を内住させ、この御方と共に歩 める恵みを得たのである(ピリピ人への手紙2章6~8節参照)。

3.十字架(壇上)の経験

イザヤが聖なる神に触れて、「ああ。もうだめだ。・・・」と(砕かれ)、自分に絶望して、壇上の火(聖霊の火)に触れて、「不義は取り去ら れ、あなたの罪も贖われた。」という経験に与っている。
野田 秀師(桜ヶ丘教会協力牧師)のエッセイに、開拓期に通りすがりの、以前幼稚園の園長をしておられたMさんと言う婦人がオルガニストの奉仕を申し出され、務めていた。(どの 程度の信仰かよく分からなかった。)ところが、ある夜の集会で、イエス・キリストの十字架についての讃美歌を歌っているときに、突然のように 心の内に聖霊の光が差し込み、彼女は劇的な変化を遂げ、変えられたのです。その後、高齢になり、眼を病みながらも白い杖を手に、一時間以上か けて、礼拝に、祈祷会に、そして、早天祈祷会に熱心に通われたとのこと。
それのみか、いとこの夫が佐世保で亡くなり、その葬儀をきっかけに、その奥様(いとこ)と娘さんが導かれ(国立在住)、野田師が洗礼をさずけ たそうである。十字架経験の明白な人は、必ず、よいあかし人として用いられるのである。(○参いのちのことば12月24頁)





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