「キリストにある感謝の理由」 KFG志木キリスト教 会 牧師 松木 充 牧師
|
|
アメリカの感謝祭(サンクスギビングデー)は、11月第 四木曜日に祝われまず。日本の勤労感謝の日(11月23三日)は、それにならったものと思われます。1620年にイギリスからアメリカに渡っ たピルグリムファーザーズにとって、最初の冬は厳しく、多くの死者が出ました。しかし、翌年は、不思議な導きで先住民に助けられて、豊かな収 穫をともに祝い、神に感謝しました。感謝祭は、キリスト教の祝祭だったのです。 感謝できることがないような状況でも、キリスト者は感謝します。それは、神の恵みによって、救われるべきでない者が救われ、物質的な祝福が 乏しい時でさえも、霊的な祝福、充足を受けているからです。 本日の聖書箇所は、パウロのピリピ人への手紙の冒頭です。パウロは投獄されている状況で(7節)、ピリピの人々を覚えて感謝します。パウロ が書いた原語では、3~4節には、「すべての」を含むことばが次々に出てきます。「思うごとに」、「あなたがたすべて…」、「祈るごとに」、 「いつも」などです。パウロがどんなに感謝していたかがわかります。 内容を見ると、1~2節は手紙の挨拶、3~11節は感謝と祈りのことばです。それは、おおざっぱに分けると、過去を思い起しての感謝 (3~6節)、現在の状況・心境(7~8節)、未来に向けての祈り(9~11節)です。 その中から、パウロが捕らわれの身になっていても感謝する理由を探ってみたいと思います。そして私たちも、困難な状況でも、キリストにあっ て喜び、感謝することを学びたいと思います。 一年はあと一月で終わろうとしており、収穫感謝のシーズンを迎えました。ふつうには感謝できない状況でも感謝できるのがキリスト者です。私 たちは何を感謝しているでしょうか。キリスト者が感謝せざるを得ないもの、感謝できる理由を、パウロの感謝から学びたいと思います。 それは、 ①受けた救い、 ②今受けている恵み、 ③永遠の希望です。 1.受けた救いのゆえに感謝(5~6節) 私たちは、受けた救いのゆえに、感謝することができます。 「最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来た…」(5節)と言われますが、「福音を広めることに…」は、直訳「福音をともに すること」です(→新改訳欄外別訳)。これは、福音の恵み=救いにあずかっていることと解するのが良いでしょう。良い働きは、「あなたがたの うちに」(6節)始められたからです。「あなたがたの間に」という解釈も可能ですが、それでも外向きのものではなく、内側に行われたことだか らです。(付記。9~11節の祈りも、彼らの成長と救いの完成を祈っています。) ただ、ピリピ教会がパウロの働きに喜んで協力したことは事実です(四14~16)。救いは、ただ自分が救われただけで終わらず、もっと多く の人に伝えたいという思いと行動になるのです。ピリピ、テサロニケ(マケドニア)の教会の惜しみない献金は、Ⅱコリント八1~5でも紹介され ています。 私たちは小さい、苦闘しながら生きている者にすぎません。それでも、福音を伝えるために祈り、何かをしているなら、感謝なことです。それ は、世の常識を超えた恵み、キリストの救いを得ている現れなのですから――。 2.今の恵みのゆえに感謝(7節) 私たちは、今受けている恵みにゆえに、感謝することができます。 「恵みにあずかった」は過去のように響きますが、そこに動詞はなく、「恵みの共有者たち」というのが直訳に近いでしょう。過去のことではな く、現在ともに恵みにあずかっている人々なのです。 ピリピの人たちは、 パウロが「投獄されているときも」、「福音を弁明し立証しているときも」、恵みをともにしていたのです。「弁明…立証…」とは、多分裁判のことか、取り調べのことでしょ う。それがローマでのことか、カイザリヤでの総督による裁判かは不明ですが…。 キリストのゆえに犯罪者のように扱われるパウロ――。しかしピリピの教会は、離れていても、心と祈りにおいて、パウロとともに信仰に立ち、 同じ真理に立っていたのです。指導者の苦境、自分たちの苦境にも確信を失わず、真理と信仰に立つ人々がいることをパウロは感謝しました。人に ではなく、神に感謝したのです。そして、そのような人々を心から愛しました(8節)。 どんな時にも、信仰をともにし、試練をともにし、同じ恵みを共有している兄弟姉妹がいることは、何にもまさる喜びではないでしょうか。 3.永遠の希望のゆえに感謝(6、9~11節) 私たちは、永遠の希望のゆえに、感謝することができます。 9節以下はパウロの祈りです。それは、彼らのうちに始められた救いを、神は必ずキリスト再臨の日までに完成して下さるという確信(6節)に 基づいた、希望の祈りです。 6節は、神が完成して下さる日が来るという確信を述べますが、9節以下の祈りは、そこに至るまでの成長をも含めて期待しています。 11節「義の実に満たされている者」とは、キリストに義とされた者にふさわしい実質を十分に備えている者です。それも「イエス・キリストに よって与えられる」ものです。私たちが受けた救いを完成して下さるのも、やはり神でありキリストなのです。だから、現在どんな状況であって も、永遠の希望のゆえに感謝することができるのです。 ホーリネス教会の創立者中田重治師は、シカゴの集会で、確信のない自分をも神に感謝すると証しし、部屋に帰ってひざまずいた時に、深い平安 に包まれて聖霊の満たしを経験したのでした(米田勇『中田重治伝』)。感謝できない現状をも神に感謝するとき、力強い神の働きが始まるので す。 |