「時満ちて来られた救い主
(時満ちて来られた救い主)

      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「し かし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わ
 し、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある
 者となさいました。」

  (ガラテヤ人への手紙4章4節、新改訳二・三版)

●「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされまし た。」

  (ガラテヤ人への手紙」4章4節、新改訳2017)
         




二、三年前まで、幼児学園とスクールで十一月末に高齢者 施設を訪問していました。今すぐ永遠のいのちが必要な方たちに、公立の施設なのでキリストの降誕と神の愛を語るのみで、もどかしい思いでし た。
 「ガラテヤ人への手紙」は、ローマ帝国ガラテヤ州のキリスト者たちに宛てた手紙です。書かれたのは、四九年頃、あるいは五六年頃と言われま す。ガラテヤの信者たちは、ユダヤ主義者たちに影響されて、ユダヤ教律法を守り、割礼を受けるように傾きつつありました。そんなガラテヤ人た ちに、パウロは、イエス・キリストへの信仰だけが救いに必要で、律法を守ることはキリスト以前に逆戻りすることだと警告し、福音の本質を教え ました。
 その神の御子、救い主キリストは、「定めの時が来たので」、「時が満ちて」、つまり、神のご準備が十分に整い、神の時が満ちて来られたので す。
 確かにキリストがおいでになった時は、福音が急速に宣べ伝えられる条件が揃った絶妙の時期でした。政治的には、道路網・交通網が整備され、 ローマ帝国の統治によって平和になりました。宗教的には、離散のユダヤ人によって旧約聖書の知識が広まり、異邦人たちが高い倫理性を求めてユ ダヤ教会堂に出入りしていました。言語的には、アレキサンダー大王の遠征によって、ギリシャ語(コイネー)が広範囲の共通語となり、宣教を助 けました。このような神のご支配を思うと、今の悩みなど小さな問題だと励まされます。
 日本でも、クリスマスはキリストを抜きにして普及しています。クリスマス本来の意味を知り、信じて救いを得ることを心から願わされます。
 イエス・キリストは、信じる者を救い、永遠のいのちを与えるために来られました。そのキリスト降誕の目的を、さらに詳しく見ていきましょ う。キリストが来られたのは、
 ①私たちを贖うため、
 ②私たちを神の子とするため、私たちを相続者とするためです。

1.私たちを贖うため(5節)

 キリストは、私たちを贖うために来られました。
 「贖う」(エクスアゴラゾー)とは、代価を払って買い取ることです。キリストは、十字架でいのちの代価を支払って、私たちを滅びから、悪魔 の支配から買い取って下さいました。そのためにこそ、地上に人間として来られ、まことの神を教え、罪なき生涯を送られ、ご自分のいのちで罪の 代価を支払われたのです。復活は、それを神が良しとして下さった証拠です。
 贖いの対象は「律法の下にある者」ですが、それは「私たち」です。「私たち」は、この世の「幼稚な教え」の下に奴隷になっていました(3 節)。
 「幼稚な教え」(ストイケイア)は、順序よく並んでいるものの意です。そこから、ABCのような初歩の教えと訳されました。それはまた、哲 学用語で、宇宙の諸霊のシステムのことでした。そこから、欄外別訳「霊力」「原理」の意味が出て来るのです。別訳の方が、この際適切かと思わ れますが、いずれにしても、実際には、「幼稚な教え」に律法も含まれるようです。
 8~9節では、神々の奴隷だったと言われるガラテヤ人たちが、なぜあの「幼稚な教え」(霊力)に逆戻りしようとするのかと問われます。とこ ろが、ガラテヤ人たちが傾いていたのは、ユダヤ教の律法主義、特に割礼でした。神の罪の規準を教えて、キリストに導く養育係の役割を終えた律 法は(三23~24)、もはやこの世の霊力に等しいものなのです。従って、贖いの対象は律法を持つユダヤ人だけでなく、すべてのこの世の霊力 に支配されている者、キリストに救われていない者すべてなのです。
 日本人は、ガラテヤ人たち同様、神々の奴隷です(8節)。その私たちをいのちの代価を払って買い取るために、キリストは地上に来られたので す。

2.私たちを神の子とするため(5b~7a節)

 キリストは、私たちを神の子とするために来られました。
 「子としての身分を受けるようになるため」(5b節)と言われます。「子としての身分」(フィオセシア)とは、養子縁組で養子とされるこ と、またその身分を意味します。当時のローマ法では、養子となって跡継ぎにされた後に実子が生まれても、跡継ぎの養子の地位は保証されていま した。
 私たちも、本来神の子どもになる資格はないのに、神はキリストの贖いのゆえに私たちの罪を赦し、子の身分を与えて下さるのです。そして、そ の身分は、キリストを心から信じる限り、取り去られることはないのです。
 神の子の特権は、「アバ、父」と神を呼んで祈れることです(6節)。確かに私たちは、クリスチャンらしくなるのに時間がかかります(1~2 節参照。もちろんこれは救済史的な比喩ですが…)。しかし、子として父なる神に祈るとき、御子のいのちに生かされた子としての性質が身に着い ていきます。

3.私たちを相続人とするため(7b節、1節)

 キリストは、私たちを相続人とするために来られました。だから、信じるならば贖われ、子とされ、神の国の祝福を受け継ぐ者とされるのです。
 「相続人」(クレーロノモス)とは、跡継ぎ、さらには受け継ぐ者のことです。神の国の祝福、特権を相続するとともに、神の子として神のご性 質をも受け継ぐのです。子が親に似るように――。そして、やがて世の終わりが来たら、私たちは、完成された神の国で、キリストとともに治める と約束されています。御国を受け継ぐとは、そのような光栄に満ちたものなのです。
 神の時が満ちてキリストは来られ、時が満ちて宣教を始められました(マルコ一15)。そして、時が満ちて聖霊が降臨し、教会の宣教が始まり ました(使徒二1)。そしてすべての神のご準備が整った今、私たちの心にキリストにおいでいただく時も、満ちているのではないでしょうか。



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