「神われらとともに」(イエスによる神の臨在)


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「『見 よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私た
 ちとともにおられる、という意味である。)」

   (マタイの福音書1章23節、新改訳二・三版)
        




 クリスマス主日礼拝を守っています。もちろん、聖書か らは主イエスがお生まれになった時期はわかりませんが、この年の瀬の心まで冷える時期、神が御子を地上に送られた福音のメッセージは、心を慰 め、暖めるものです。
 この聖書箇所は、言うまでもなくヨセフへの受胎告知ですが、その結末に「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言われます。これはイザヤ書7 章14節の処女降誕預言の成就です。
 神に等しい神の御子が人となられたことにより、神がともにいて下さるという臨在が実現しました。人は、神であり人であるイエス・キリストに おいて神と出会うのです。イエス・キリストは、信じる者とともにおられます。二人、三人の小さな集まり(教会)の祈りの中に(一八20)、宣 教し、バプテスマを施し、信者を教える教会の働きのうちに(二八20)――。
 人間の創り主である神とともにいることは、人間の究極の必要、すべての解決です。罪の赦しも、日々の必要の満たしも、危機における助けも、 永遠のいのちも――。神の臨在はあらゆる問題に対する解決、救いです。
 モーセも、ヨシュアも、神の臨在によって大任を果たしました。ヨブも、極限の試練に遭いましたが、神に出会っただけで解決してしまいまし た。
 私たちは、イエス・キリストにおいて神とともにいることができます。それがどのように実現されたのか、マタイの処女降誕の記事から見ていき たいと思います。
それは、
 ①聖霊の新創造によって、
 ②聖霊によるキリストの内住によって、
 ③罪からの救いによってです。

1.聖霊の新創造による神の臨在(18、20節)

 神の臨在は、聖霊による新しい創造によってもたらされます。
 マリヤの処女懐胎は、聖霊によるものでした。聖霊は、男女の生殖によらず、神の力によってイエスの肉体をマリヤの胎内に造りました。これは ルカも同様に記していることです(ルカ一35)。
 それは、新しい創造の始まりでした。かつて神は、神の霊によって天地を創造されました(創世記1章2節)。いまや聖霊は、マリヤの胎内にイ エス・キリストの肉体を創造されたのです。イエスの処女降誕が示すのは、聖霊による新しい神の創造です。
 イエス・キリストを信じるときに、人は新しく造られたものとなります(コリント人への手紙第25章17節)。神を知らない者も、イエス・キ リストにおいて真の神に出会い、神に新しく創造された者となり、神とともに生きる者となるのです。創世記の堕落以前の神との関係が回復される のです。
 人間本来の生き方、本当の「人間らしさ」とは、本能のままに生きることではなく、神を愛し、隣人を愛する生き方であり、そのような人間本来 の姿へと造り変えるのが、イエス・キリストにおける聖霊の働きなのです。

2.キリストの内住による神の臨在(20節)

 神の臨在は、キリストの内住によってもたらされます。
 イエス・キリストは、聖霊によって処女マリヤの内に宿りました。もちろんそれは、肉体をもって宿ったことですが、キリストが人の内に住んだ 最初の出来事で、文字通り、神が人とともにおられるようになったのです。
 まず、神が人間になることによって、神が人とともにいることが実現しましたが、十字架、復活を経て昇天されたイエス・キリストは、信じる者 の内に、聖霊によって住んで下さいます。
 聖霊によって処女マリヤのうちに宿られたキリストは、信じる者の心にも聖霊によって住んで下さるのです。それは、この箇所が直接教えること ではないかもしれませんが、新約聖書が明らかに告げていることです(例、ガラテヤ人への手紙2章20節、エペソ人への手紙3章17節他)。
 人間が新しく造られると言っても、肉体が新しくなるわけでもなく、別の人間になるわけでもありません。新しく造られて生まれ変わり、神に造 られた本来の自分となって生きます。それを内側から導き、日々造り変え、新しくして下さるのが聖霊によって内住されるキリストなのです。

3.罪からの救いによる神の臨在(21節)

 神の臨在は、キリストが罪から救って下さることによってもたらされます。
 主の使いは言いました。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と――。
 なぜ「イエス」なのでしょうか。「イエス」というのは、「ヨシュア」がギリシャ語化された名前です。紀元前三世紀半ばからアレキサンドリア で翻訳が始まった旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳聖書)は、ヨシュア記のヨシュアを「イエースース」と、全く「イエス」と同じギリシャ語で 記します。ヨシュアの意味は、「主は救い」です。「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」というメッセージが込められた名です。
 ここでの「罪」は複数です。犯した罪(複数)と内にある根源的な罪(単数)という区別よりは、ありとあらゆる罪を含むと見た方が良いでしょ う。人と神を隔てるのは罪です。イエス・キリストは、罪ある人間と一つになり、その罪を負って十字架の贖いを成し遂げられ、復活されました。 このキリストの罪の贖いが、神と人との隔てを取り、神の臨在をもたらすのです。
 おとめマリヤの内に宿られ、お生まれになった方は、私たちを新しく造り、内に住んで下さり、全き罪からの救いを得させて下さいます。そし て、神がともにおられる臨在を実現して下さる「インマヌエル」なる救い主です。
 ジョン・ウェスレーの最期のことばは、「私の人生で最も良かったことは、神が私とともにいて下さったことだ」でした。死の間際ですら、神が ともにいて下さる幸い――その実現の開始がキリストの受肉でした。このクリスマスに、神の臨在のメッセージを深く心に刻みたいと思います。



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