「助けは主から」(永遠の守り)  

      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「私 は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来
 るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来
 る。」 
        
         (詩編121篇1~2節)
      




私たちは、どこから助けを得るのでしょうか。努力も大切 です。頼りになる人もいるでしょう。しかし、私たちが根本的に、かつ最終的に頼みとし、助けを求めるのは神ではないでしょうか。
 表題に「都上りの歌」とあります。人々が祭の時にエルサレムに旅して、シオンの山の上の都を、神殿を見上げて歌った詩です。冒頭に問いと答 えがあるので、交互に歌ったものとも考えられています。
 作者も年代も不明で、人々が歌っていたものでしょう。イスラエルの祭が安定して行われた時代と言えば、ダビデ・ソロモン時代(前900年代 前半)、あるいは捕囚後神殿が再建された時代(前500年頃以降)でしょうか。いずれにしても、戦いの多い時代でした。そのような中で、人々 は主を礼拝し、「私の助けは、天地を造られた主から…」と信頼したのでした。
 この年も、私たちは右往左往する前に問うべきです。私の助けはどこから来るのかと――。助けは、天地を造られた主、御子イエス・キリストさ えもお与え下さった神から来ます。八方手を尽くすのは、それからです。
 私たちは主に助けられ、守られて生きることができます。
 主にこそ
  ①絶えざる守り、
  ②すべての災いからの守り、
  ③永遠の守りがあるからです。

1.絶えざる守り(3~4節)

 主の守りは、まず絶えざる守りです。
 「主はあなたの足をよろけさせず」と言われます。直訳的には、「主はよろめきへとあなたの足を渡さない」です。主があなたをしっかりと抱 え、よろけさせようとする力に渡してしまうことはないのです。
 「あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(3b~4節)。言うまでも なく、いつも守っていて下さることです。
 「眠らずに守られる神」という信仰の由来は、イスラエルが出エジプトする前夜に、主が寝ずの番をされたことにさかのぼります(出エジプト 12章42節)。主の十の奇跡、とりわけ最後の初子を打つという大打撃を受けたエジプト――。パロは、イスラエルが出て行くことを承諾しまし たが、主にぬかりはなく、寝ずの番をして、イスラエルが無事出発するまで守られたのです。
 他の箇所にも、眠らない神への信頼は見られます。詩篇127篇2b節「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださ る」。詩篇三5~6「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れな い。」
 主イエスは、十字架上で「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言われました(ルカによる福音書23章46節)。これは詩篇3篇15節の引用 で、就寝前の祈りでした。主は、復活を信じ、父に信頼し、眠りに就くように息を引き取られたのです。
 私たちは、まどろむことも眠ることもないお方に守られて、安心して眠ることができます。信者の死を、新約聖書で「眠る」と言いますが、死の 時も、やがて目覚める時を信じて平安に眠ることができるのです。

2.すべての災いからの守り(5~7節)

 主の守りは、さらに、すべての災いからの守りです。
 「主はあなたを守る方」(5a節)は、すべてを要約しています。
 「右の手」(5b節)は、利き腕。働く手、戦う手、力ある手、重荷を持つ手です。そこを主は守って下さるのです。
 「昼も、日が…夜も、月が…」(6節)。中近東の日光は厳しく、日射病を引き起こします。また、月も病気(てんかん)を起こすと考えられて いました。欧米にも同じアイデアがあります(ルナティック=精神異常。ルナは月のこと)。主は、病気から守って下さるということです。
 病気だけでなく、「主はすべてのわざわいから、あなたを守り」(7a節)と言われます。「わざわい」(ラー)とは、悪です。あらゆる悪魔の 働き(→主の祈り「悪」)から守って下さるのです。
 「いのち」(ネフェシュ、7b節)は「たましい」とも訳され、いのちの根源と言えるでしょうか。悪魔のどんな働きも、主に信頼する者から永 遠のいのちを奪うことはできません。人間は必ず死にますが、地上で主の御用がある間は守られ、生かされ、永遠のいのちを持って生きるのです。
 医師だった私の父の持論は、「病気は神様が癒す。医療はそのお手伝い」でした。癒されないで神の栄光を現すこともあります(水野源三さん、 星野富弘さん…)。それは、救い=究極の癒しをいただいているからです。

3.永遠の守り(8節)

 主の守りは、永遠の守りです。
 「行くにも帰るにも」。ヘブライ的に「出入りする」とは、生活することです。それは、文字通り家を出て家に帰ることでもあり、より直接的に は、家を出て都に上り、祭で礼拝し、家に帰ることでしょう。それはまた、神に造られて世に出て来て、神のもとに帰る人生そのものでもありま す。
 イスラエルの人々は、この8節を書いて家の門に貼り、それを唱えて家を出て、帰って来るとこれを唱えて家に入るとか…。
 その守りは「今よりとこしえまで」、永遠です。私たちの出入りを、神のみもとに帰るまで、守って下さるのです。毎日これを心に留めておきた いものです。神のみもとに帰る時も――。
 最後に、表題「都上りの歌」に戻りましょう。主を信じる人たちとともに礼拝することは、主に向かって目を上げる大きな助けです。目を上げた 時、アブラハムは主の備えを見ました(創世記22章13節)。ヨシュアは主の軍勢の将を見ました(ヨシュア5章13節)。旅路に疲れた人々 は、主の助けを再確認しました(本個所)。主の復活の朝、婦人たちは目を上げて、墓を封じていた石が転がされているのを見ました(マルコによ る福音書16章4節)。ともに礼拝し、信仰の目を上げて、主の助けと守りを受け続ける者でありたいと思います。





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