「不信仰から信仰へ」(ナザレの会堂にて) 

KFG志木キリスト教会  牧師 松木 充 師
 



「イ エスはこう言って話し始められた。『きょう、聖書の
 みことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現しまし
 た。』」

      (ルカによる福音書4章21節)
      
        




素直に、すみやかにキリストを信じるのは望ましいことで すが、なかなか難しい場合もあります。それは、信者にも未信者にもあることでしょう。
 このナザレの会堂での出来事は、イエスの宣教の初期のことと思われます。マタイ、マルコにも並行記事がありますが、ルカ独自の内容もありま す。
 ナザレの会堂で、まずイエス様がしたことは、イザヤ書61章1~2節の朗読でした(16~20節)。「わたしの上に主の御霊がおられる…」 とは、主イエスが荒野の誘惑に勝利し、聖霊の力に満ちて活動しておられたことで、実現していたことです(14~15節)。預言を実現したメシ アを前にしたナザレの人々(21節)――。彼らは、イエスを信じるどころか、どの地方の人々よりも不快感を示し、殺そうとまでしました。マタ イ、マルコはそれを「不信仰」と言います(マタイによる福音書13章58節、マルコによる福音書6章6節)。
 このような箇所から何が学べるでしょうか。彼らの不信仰から、どうしたら主イエスを信じられるかを学べるのではないでしょうか。このように 預言を成就したお方を前にして、私たちはどうするかが問われています。
 なかなかイエス・キリストを信じない国、日本に住む私たちですが、ナザレの人々の不信仰を反面教師として、どのようにしたらキリストを信じ られるかを学びたいと思います。
 それは、
  ①先入観を取り去ることによって(22~23節)
  ②救い主を歓迎することによって(24~27節)
  ③十字架のキリストを信じることによって(28~30節) です。

1.先入観を取り去る(22~23節)

 私たちは、まず先入観を取り去ることによって、イエス・キリストを信じることができます。それは、決して考えるのを止めることではありませ ん。むしろ、冷静かつ客観的に考えることです。
 実存主義哲学に、「判断停止」(エポケー)というプロセスがあります。物事(自分)を、可能な限り先入観や判断を避けてそのまま見るので す。すると実体が見えてきて、どうしたら良いかが見えてくる…というわけです。
 ナザレの人たちは、イエスの教えに驚嘆しながらも、「この人はヨセフの子ではないか」と言いました(22節)。イエスが育ち、幼少時代、青 年時代を過ごしたナザレ。当然そこには、幼い頃から彼を知っている人たちがいました。そういう人たちは、イエスを教師(ラビ)と認め、その教 えを受け入れることすら難しかったのです。彼らの心を見抜いたイエスは、「目の前で奇跡でも見せてみよ」という彼らの思いを言い当てます (23節)。
 私たちは、どのような先入観をキリストに、キリスト教に持っているでしょうか。未信者なら、人間イエスが神の子、救い主であるはずがない、 復活など信じられない…などと思うでしょう。信者でも、神様は悪いことなど起こるのをお許しにならない、起こっても即座に奇跡的に解決してく れる…と思っている人もあるでしょう。自分の心に描いた神を、キリストを信じているのです。聖書が提示するキリストを、そのまま受け止めるこ とが必要です。

2.救い主を歓迎する(24~27節)

 イエス・キリストを信じることができるためには、次に、救い主を歓迎することです。
 主イエスは、「預言者は郷里では歓迎されない」と、エリヤ(サレプタのやもめ)の例と、ナアマンの例を語ります。
 エリヤは、王に迫害され、味方する人も(表面上は)なく、異郷の地シドンのツァレファテ(サレプタ)に逃れました。そこで食べ物がなく、死 を覚悟していたやもめ親子が、エリヤのことばを信じて奇跡的に粉と油が与えられ、エリヤは養われました(Ⅰ列王記一七章)。
 ナアマンは、敵国シリアの将軍でした。しかし、捕虜にされて奴隷になっていたイスラエルの少女から預言者エリシャのことを聞き、重い皮膚病 を癒してもらうために来訪。ヨルダン川に七度身を浸せと言われ、家来に促され、エリシャのことば通りにして癒されました(列王記第二5章)。
 「歓迎される」(デクトス=歓迎されている状態)は、「受ける」(デコマイ)という動詞からです。そのまま受け入れることです。外国人たち が神のことばをそのまま信じたことは、目の前にいるメシアを信じない神の民への手厳しい批判であり、チャレンジでした。ナザレの人たちは、怒 り、拒絶しました。私たちはどうでしょうか。

3.十字架のキリストを信じる(28~30節)

 最後に、自分が思い描くキリストではなく、十字架のキリストを信じることです。これには、少々説明を要すると思います。
 ナザレの人々は、イエスを殺そうとしましたが、イエスは不思議にも、毅然とそこを立ち去ります。これはルカ独自の記述です。
 この出来事は、十字架を予感させます。ルカは、他にも十字架を予感させる出来事を記しています(二7、二34~35)もちろん、悪魔の荒野 の誘惑(四1以下)も――。イエスのご生涯は、初めから苦難が多かったのです。
 またルカは、ある時期からまっすぐに顔をエルサレムに向け、十字架と復活に向けて毅然として進んで行かれたイエスを記します(九51)。つ まり、主はご自分の意志でいのちを捨てられたのです。ナザレでも、人々はイエスの命を奪うことはできませんでした。十字架を避ける力も権威も あったお方が、私たちの罪を贖うために、自ら進んでいのちを捨てられました。このお方を信じるときに、本当のキリストを信じられたと言えるの です。
 私自身、問題をたちどころに解決するキリストを信じていました。苦難を通らなければ得られない恵みを与えるキリスト、私たちの苦しみを知 り、必要な慰め、励ましを与え、実は守って下さっているキリストを信じるのには時間がかかりました。先入観を取り去り、主イエスをそのまま歓 迎し、私たちのために十字架の道を進まれたキリストを信じたいと思います。




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