「奇蹟以上の奇蹟」(中風の人の癒し


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「彼 らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦さ
 れました。』と言われた。」

         (ルカの福音書5章20節)
      




3月11日で、2011年の東日本大震災から七年になり ます。87年たった今も、町の形は整備されてきても、人々の暮らしやコミュニティの立て直しは、まだまだです。今も七万三千人が避難生活、人 口流出も止まらず、岩手、宮城、福島の三県は25万人減少しています。賠償金の支払いも三月で終了と、厳しい状況です。キリスト者として、何 ができるでしょうか。何より神からの助けを祈り、希望のメッセージを伝えたいと願います。
 二億人以上に福音を語ったビリー・グラハム師のようにではありませんが、ここに四人(マルコの福音書2章3節による)の人が一人の病人を主 イエスのもとに運んで来ます(マルコの福音書2章1節以下、マタイの福音書9章2節以下に並行記事)。
 人が多くて主に近付けない中、屋根をはがすという思い切った行動に出て、何とか主の前に中風の人をつり降ろします。主は「友よ。あなたの罪 は赦されました」と言われ(20節)、罪を赦す権威を示すために、この人を癒されました(23~25節)。
 主イエスは、癒しよりも罪が赦されることの方が大変なことであり、すばらしいことだと言われます(23節)。罪の赦しは、癒しの奇蹟以上の 奇蹟です。癒しは、主イエスが罪を赦す権威を持つ救い主であることの証拠であり、ヨハネ的に言えば「しるし」でした。
 今日も、このようなイエス・キリストによる罪の赦しは行なわれています。すばらしい癒し、そしてそれ以上にすばらしい罪の赦し――。どのよ うにしてそれが起こったのかを探り、今日の私たちも同じ恵みを受けたいと思います。最大の奇蹟である罪の赦しは、①キリストへの信仰によって 与えられます(20節)。さらには、②キリストの権威によって(24節)与えられます。

1.キリストへの信仰によって(20節)

 罪の赦しをいただけるのは、信仰によってです。
 「彼らの信仰を見て」、主イエスは罪の赦しを宣告しました。
 「友よ」というのは、ルカ独自の呼びかけです。マルコは「子よ」という呼びかけを記します。「友よ」は意訳で、直訳は「人よ」です(新改訳 欄外)。なぜ「友よ」と意訳するのでしょうか。
 イエスは、ルカでは全き人として描かれています。神に等しい御子でありながら、地上では祈りの人でもありました(16節、四42)。この中 風の人を「人よ」と呼ぶのは、ご自身と同じ人間として扱っていることを意味します。「友よ」という訳は、そのためと思われます。
 なお、主が「赦されました」と言われる「罪」は、複数です。主イエスへの信仰ひとつで、すべてが赦されるのです。
 その信仰は、「彼らの信仰」です。中風の人を運んできた友人たちの信仰も含まれているのは明らかです。多分、中風の人は、しゃべることもま まならず、信仰告白するだけの肉体的力がなかったように思われます。
 主イエスは、どこに彼らの信仰を見たのでしょうか。ひとつには、何としてでも病気の友を主のもとに連れて行こうとした愛の行動でしょう。愛 は、屋根をはがしてつり降ろすという知恵と勇気を与えます。
 もうひとつ考えられるのは、中風の人も含めた彼らの内面を、主が見られたということです。不信仰をも見抜かれた主ですから(22~23 節)、内面の信仰も見抜かれたのは間違いないでしょう。
 もちろん、その信仰の中身は、病気を治してほしいというだけのものだったかもしれません。しかし、それが主イエスに向けられたことが重要で す。そして、何とかして治してあげたいという愛を主は受け入れて下さり、癒し以上のものを下さったのです。
 友人たちの信仰と愛の行動も、罪の赦しと癒しに大きく関わったことは、心に留めたいところです。信仰告白する力もない場合、「キリストの十 字架で罪の代価は支払い済みです。あなたの罪は赦された!」と大胆に宣言してあげる信仰も必要です。
 さらには、一人では導きにくい人でも、何人かで協力して導くことも大切です。マルコは「四人」と友達の人数を特定しますが、マタイもルカも 人数は特定しません。教会の働きとしてこれを見たからではないでしょうか。
 誰かがケアしているから大丈夫――そんな場合もあります。しかし、そうでない場合もあります。協力して、人を主のもとに導きたいものです。

2.キリストの権威によって(24節)

 罪の赦しは、イエス・キリストの救い主としての権威によります。
 イエス・キリストは、律法学者、パリサイ人の不信仰への答として、癒しの奇蹟を行われました(22節以下)。
 先に信仰について見ましたが、彼らの信仰は決して完全なものではなく、多分病気の癒しだけを求めたものでした。それでも、そんな信仰を受け 入れ、赦して下さったのは主です。主の権威は、あわれみある権威です。
 絶対的な罪の赦しの権威は、言うまでもなくキリストの十字架・復活から来ます。主イエスは権威ある神の御子、神に等しいお方ですが、罪なき 全き人として罪の刑罰を受けました。「人よ」と呼ばれた者と同じ人間として、罪の刑罰を受けたのです。そこに人の罪を赦す権威があります。
 今日、イエス・キリストの御名によって癒しも起こるかもしれません。奇蹟も起こるかもしれません。しかし、人間はいつか死にます。死を前に した人には、癒しは過去のものでしかありません。何より大切な永遠のいのち、罪赦されて神の子となる救いを求め、また提供したいと思います。
 愛媛県で力強い働きをされた青野雪江師は、癒しを祈る前に、まず主イエスを救い主として信じるよう求めました。そして、その人は実際に癒さ れました。最も必要なものを、協力して与えたいと思います。たとえ不完全な信仰であっても、権威あるお方に信頼したいと思います。十字架の血 潮は、どんな罪でも赦し、洗いきよめる力があるのですから。



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