「耕地を開拓せよ」(真の回心〈trury retern〉) 

KFG志木キリスト教会  主任牧師 久保 真理 師
 



「耕 地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。」

       (エレミヤ書4章3節)

「『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れ のために定められた数週を私たちのために守ってくださる』と。」
 
       (エレミヤ書5章24節)
      
      



1.罪の姿 (全地は荒れ果てている) (四26、27)

ユダの民やイスラエルの人々が生活していた荒野の多い地では、雨が降らない。水がないとは、死活問題であり、神の祝福があるかないかに関かわ る。真の神を知らない土着の人々は豊穣の神バアルを崇拝するのに明け暮れて、恥ずべきことが行われ、不道徳で、人格的崩壊(四19~31)、 自然の破壊(四23~28)、社会的荒廃(四29~31)、があり、真の神を知る神の選びの民も、いつの間にか、異教の神々に、仕え、頭をさ げていたのである。
「純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。たとい、あなたがソーダで 身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。」(二21、22)
あくの強い山菜や木の実など、灰汁を使って、食べられるようにできる。しかし、質の悪い雑種のぶどうになった罪人は(背信者)は、人の工夫や 努力では神の前には立てない。
エレミヤは「真の悔い改め」(trury retern)を強調している。これは人の側で、罪を認め、卑り下って、回心すべきことであろう。(わかりやすく言えば、知情意の全人格的方向転換である。)。
イエスの例え話を思い出す。まず、パリサイ人の祈りは「立って心の中で」祈った「神よ。…ほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者 ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」それに、断食と十分の一を献金して祈っている。それに対して「取税人は遠く 離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」(ルカの福音書18 章9~14節) と。

ニ、荒地を耕すこと (○参ホセア書10章12節)

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなた がたに注がれる。」と、この聖句は冒頭のエレミヤのことばとおうむ返しのように似ている。主が、預言者によって、真の悔い改めを迫ったのは、 今日のいわゆるクリチャンにも同様である。(○参ホセア書6章3節)。
「いばらの中に種を蒔くな。」(四3)ともあるのは、よく耕して、石やガラクタ、雑草やいばらを抜き取り、黒々としたよく耕した地に種をまく ことができ、天来の祝福の雨、特に先の雨(秋の雨〈10月頃〉)、後の雨(春の雨〈三、四月頃〉)が降り注ぐ時、結実は期待できる。「いば ら…世の心遣いと富の惑わしとがみことばをふさぐ」とある様に、各人が結実を得られない心は、砕かれ、耕される必要がある〈○参マタイの福音 書13章23,24節〉。
さらに、「主ために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」(4)とあるのは悔い改めの徹底がいかに必要か(「砕かれた魂」【詩篇51篇17節】 つまり、キリストとともに死に、キリストと共に生きる、十字架経験(コロサイ人への手紙2章11,12節)が悔い改めの延長線にある(自我 も、世も、砕かれていれば、恵みの雨が降り注ぐ時、大いに収穫が期待できる。)。
多くの人々は自分に限って、偶像礼拝にひかれる事はないと思うであろう。問題は外のかたちではなく、各人の心の内側が問われている。使徒パウ ロは「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、その まま偶像礼拝なのです。」(コロサイ人への手紙3章5、 ~10節参照)、結局、最大の偶像は自分自身である。そこに耕しのクワを入れること である。

三、主は大雨を降り注ぐ (五24) (ホセア書6章3節)

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エ リヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」
預言者エリアもエレミヤも、神からのメッセージを託され、神への不服従には祝福を失い、やがて、神の審きに会うことの警告をしていた。特にバ アル神が豊作の神々(偶像神)であるなら、なおの事、神の人は(義人)は天来の権威を持って、進むべき道を示していた。
つまり、地上の農作物の祝福(収穫)も、主なる神のみ手に降雨の鍵が握られている。そして、地上の人々の心の在り方も素直に主の道に従うか否 かによって、霊的にも、義人の祈り手としての役割を果たすか、否か、私たちの日々の歩みにかかっている。
かつて、米国の一弁護士に過ぎなかったフィニーは教会の祈祷会に出席した時、出席者が祈ってはいるが、聖書の約束の成就としての祈りの応答の あかしのないことに失望し、ご自分で、近くの山に行き、真剣に祈った結果、彼はみことば通り、救われ、その恵みを語り、人々が次々と奇跡的に 救われて、大リバイバルが起こった。大雨が降り注ぐとは聖霊の働きの象徴的約束でもある。私たちも大リバイバルを祈ろう。




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