「主がお入用なのです」


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「弟 子たちは、『主がお入用なのです。』と言った。」

      (ルカによる福音書19章34節)
        





 本日(三月二十五日)はパームサンデー(棕櫚の主日)です。人々が棕櫚の枝を道に敷き、棕櫚の枝を取って主イエスをエルサレムに迎えた記念 の日曜日です(マルコの福音書11章8節、マタイの福音書21章8節、ヨハネの福音書12章13節)。ここから受難週が始まり、木曜日に最後 の晩餐、ゲツセマネの祈り、捕縛、裁判、金曜日に十字架、日曜日に復活という順序です。毎年受難週を記念するのは、主イエスの十字架を思い起 し、信仰と感謝を新たにするためです。
 エルサレムは、ルカが描く救いの歴史の中心です。イエスはエルサレムへと向かわれ(9章31、51節、13章33~35節)、そこで救いの みわざ、十字架と復活を成し遂げられます。マタイ・マルコは、預言の成就を旧約引用で示しますが、ルカは歴史の流れから旧約からの連続性、旧 約の成就を示します。そして福音はエルサレムから世界へ(使徒の働き)――。その意味で、劇的なエルサレム入城は、福音書のクライマックスの 開始と言えます。
 ところで、イスラエルの回復を預言するエゼキエルは、主の栄光が東の門から去り(エゼキエル書10章18~19節、11章22~23節)、 東の門からエルサレムに帰る(エゼキエル書43章4節)という幻を預言します。メシアが東の黄金門から軍勢を率いて入るというユダヤ人の伝承 がそこから生まれ、イスラム教徒は黄金門を石で塞ぎました。主イエスのエルサレム入城は、主の栄光が帰って来るエゼキエルの預言を成就したも のと言えるでしょう。
 主がろばに乗られたのは、戦いでなく平和のために来られたことを示します(ゼカリヤ書9章9節の成就、マタイの福音書21章4~5節)。そ のようなドラマチックな主イエスのエルサレム入りの場面で目を引くのが、やはり「主がお入用なのです」というみことばです(31、34節)。 それは、直接にはろばの子のことですが、ろばの子を提供した人たち、解いて連れて来た人たち、ろばの子に乗った主イエスを迎えた人々にも関 わって来るでしょう。
 主がお入用。主が求めておられるのはどのような人々でしょうか。

1.主を運ぶ器(29~35節)

 主がお入用なのは、ろばの子に象徴される、主を運ぶ人です。
 ろばの子は、主イエスを乗せて運びました。主イエスは、歩くこともできました。馬に乗ることもできましたが、敢えてろばの子を用いました。
 復活・昇天されたキリストも、人々の証しを通して運ばれて行きます。パウロ(サウロ)も、主の御名を運ぶ選びの器でした(使徒の働き9章 15節)。
 文書伝道は、直接語りませんが、それでも書く人、印刷する人、配る人などが必要です。イエス・キリストの福音を書いた聖書も、初期から、筆 写する人、翻訳する人、運ぶ人などが必要でした。
 主は、今日も主の臨在と福音を持ち運ぶ器を必要としています。「主がお入用」なのです。
 力がなくても良いのです。立派でなくても良いのです。主イエスがかすむほど立派な人はいりません。イエス・キリストによって罪赦され、よろ めきながらでも主を伝えたい器が必要なのです。
 日本では、五十代以上の牧師が八十九パーセントを占めています。若いキリスト者が立ち上がらなかったら、日本の教会はどうなるでしょうか。

2.主を運ぶ器を提供する人(31~33節)

 主を運ぶ器とともに、それを提供する人も、主がお入用です。
 ここには、喜んでろばを提供した持ち主(33節、直訳「主人たち」)がいました。そして、ろばを主のもとに連れて来る弟子たちも――。わが 子を主の御用に…と祈り、ささげる親も必要です。

3.道を整え、歓迎・賛美する人(36~38節)

 主がお入用なのは、ろばの子、それを提供し、連れて来る人だけでなく、道を作り、歓迎・賛美する人々でもあります。
 彼らは、道に上着を敷き(36節)、大声で賛美して主を迎えました(37、38節)。ことばを換えるなら、彼らは主イエスのエルサレム入り を劇的にし、十字架の舞台を整えていきました。彼らの歓迎と賛美は、パリサイ人たちの嫉妬をかき立て(39~40節)、それが十字架へとつな がるのです。
 主を賛美する人々について、主イエスは言われました。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(40節)。道を整え、歓迎し、賛美を叫ぶ 人々も主が必要とされている人々です。
 教会に毎週毎週集い、主をほめたたえ、主の臨在をお迎えし、祈り、主のみことばを聴く人々がいなくて、どうして教会が成り立つでしょうか。 二人、三人でも教会ですが(マタイ一八20)、それでも二人、三人が集まらなければ、キリストの臨在ある教会にならないのです。主がお入用な のです!

4.主を拒む人々(41~44節)

 主がお入用なのは、主を信じる人たちだけではありません。主を拒む人々も、主は求めておられます。もちろん、彼らが救われるためです。
 主イエスは、エルサレムの最期を預言しながらも、泣かれました(41節)。この予告は、六六~七〇年のユダヤ戦争で実現します。それをご存 じだったからこそ、主はエルサレムのため、ユダヤ人たちのために泣かれたのです。
 同様の主のおことばが、すでに13章34~35節にあります。主イエスは、エルサレムを、イスラエルを御翼の下に集めようとされましたが、 イスラエルは拒否しました。そして十字架による処刑、復活――。
 言うまでもなく、十字架は主イエスが人々の罪を身代わりとなって負われた出来事です。それはユダヤ人たちの罪でもありました。主は、今もユ ダヤ人を含めて、主を拒む人々を求めておられます。
 それはユダヤ人であった使徒たちの悲願でもありました(ローマ九1~5)。それは今日まで受け継がれて、メシアニック・ジュー(イエスをメ シアと信じるユダヤ教徒)のムーヴメントになっています。主イエスを信じないすべての人々を、主は求めておられます。主を運ぶ器を主がお入用 なのは、主を信じない人々を主が求めておられるからです!



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