[イースターメッセージ]

「復活の主に会った)(マグダラのマリヤ)


      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理牧師
 



「マ グダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかり
 ました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話さ
 れたと弟子たちに告げた。」(18)」

        (ヨハネの福音書20章18節)
      




1.あいた墓 (石が取りのけてあった)

二千年前、神のみ子イエスが十字架上に死に、岩をくり抜いた横穴式の墓に葬られた。マグダラのマリアと他の女たちが早朝、墓に行き、イエスに 香油を塗りに行こうとした時、石を転がしてくれる人はいるか心配したが、マリアが墓に着いた時、「墓から石が取りのけてあるのを見た。」 (1)、すでにイエスを復活させた御方、主なる神が墓をふさいだ石を取りのけられたのである。
空の墓に驚いたマリアはエルサレムの部屋の奥に閉じこもっていたペテロ(弟子のリーダー格)とヨハネに「だれかが・・・主を取っていきまし た。」と、その事実を告げた。
マリアは七つの悪の霊の支配(一種の精神病のような状態)で悩まされていたが、主イエスに会うことで、絶望的な暗黒の生涯から救われて、感謝 し、主を慕い、愛していた。
マグダラ地方はガリラヤ湖の西岸、デビリヤの北5Kmの所で、織物と染色で栄えた商業都市(人口一万五千人)で、ローマ風呂があり、道徳的に みだれ、売春の巣窟として知られていた。そこでこのマグダラのマリアも堕落した罪深い女性と思われていた(いや、彼女はイエスの足に香油を 塗った罪ある女 (ルカの福音書7章)とは別人と言う人もいる。)、いずれにしろ、彼女は「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれているマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨ ハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産を持って彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。」(ルカの福音書8章2.3節)つまり、 感謝を持ってイエスに従う、女の弟子たちであった。
このイエスに仕えていた女たちは、主イエスが十字架にかけられた時、(マルコの福音書15章)、男の弟子たちが皆、逃げ去ったのに、場合に よっては自分たちにも関わってくるかも知れないのに、離れないで、十字架の出来事を見ていたのであった。
そして、あいた墓の前に立ち、イエスがいないのに驚いて、エルサレムに人を恐れてとじこもっているペテロとヨハネに告げたのであった。

2.死体をつつんだ布 (物的証拠)

それを聞いたペテロともう一人の弟子(ヨハネ)は園の墓に急いで走った。若いヨハネはペテロより、先に到着したが、「からだをかがめてのぞき 込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中には入らなかった。」(5)
ペテロは後から墓に到着し、「墓にはいり、亜麻布が置いてあって・・・」と、観察し、イエスを横たえた石台の上に「頭に巻かれていた布切れ」 は離れたところに巻かれたまま」置かれ、からだを巻いていた亜麻布もそのままあった。つまり、遺体に巻かれたまま、すーっとぬけ出た状態を 「見た」。彼らはイエスの姿がなくなっているのを確認し、もう一人の弟子も、「見て信じた」(8)(聖書が語る復活ではない様だ。)〈○参 9〉弟子たちはエルサレムへ帰り、静かになった。
ペテロ、ヨハネ、そしてマグダラのマリアは残された亜麻布をみた(復活の物的証拠を見な がら悟っていなかった。)。

3.復活の主の顕現(名を呼ぶ主)

マリアは「外で墓のところにたたずんで泣いていた。」(11)そして中をのぞき込んだ時、ふたりの御使いが、頭と足のところに白衣の姿で、す わっていた。― 彼らは、「なぜ泣いているのですか。」と、意味ありげに尋ねた。
それでも、まだ、「だれかが私の主を取っていきました。」(13)まさに、生ける主を死人の中に探す姿であった。その時、何と、復活した「イ エスが立っておられるのを見た。」(14)、しかしマリアは「園の管理人」だと思って、「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いた のか・・・私が引き取ります。(15)と告げた時、「イエスは彼女に・・・『マリア。』」と、なつかしい声で、名を呼んだ。それに対して、 「『ラボに(先生我が師よ)』」と応答した。かつて、七つの悪霊につかれ、罪深い女と見られていたマリアに、どの弟子よりも、母マリアより も、最初に復活の主は姿を現わし、み声をかけられた。しかも、「『私は主にお目にかかりましたと言い、また、主が彼女にこれらのことを話され たと弟子たちに告げた。』」のである。
かつて、どの様に罪深く、病んだ心であっても、イエスの十字架の身代わりの死と、復活の主との出会い、その声(みことば)を聴いた者は、見聞 きしたことを語らざるを得ない人に大変化する。まさに、「私は主にお目にかかりました。」と、地の極まであかしする者とされたのである。
神学校の寮で同室だったNさんは、世界に有名なカメラ会社のレンズを磨く特技を持つサラリーマンで、かなりの給料とりであった。結婚して、妻 も子もいたのに、かなりの飲べーで、アル中となり、手がふるえる様になり、職場でも、食前、食後服用と言うクスリビン(酒)を携帯し、飲まな いとやっていけない人になっていた。その上、毎晩の様に飲み屋で、飲み、道ばたに倒れ、寝込んでいるNさんをリアカーにのせて、つれて帰る 日々であった。
やがて離婚となり、さびしいので、さらに飲む日々。ある夜、商店街に十字架の赤提灯がさげられ、聖歌を歌うキリスト教の集会が始まった時、彼 は間違って飲み屋のつもりで出席し、ついには夜を徹して悔い改めの祈りをして、「あなたの罪は赦された」と主の声をきいて、生まれ変わったの である。―そして後に彼は牧師になった。




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