「安息日は誰のために?」


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充牧師
 



「そ して彼らに言われた。『人の子は、安息日の主で
 す。』」

         (ルカの福音書 6章5節)
      




安息日は、ユダヤ教では土曜日ですが、キリスト教では、 主イエスの復活を記念して日曜日に礼拝します。ヨハネの福音書20章の、復活顕現が続けて日曜日であった記録から(1、19、26節)、日曜 礼拝の起源は、全面的にキリストの復活にあると見なければなりません。 さて、ルカの福音書6章には、安息日の癒しを巡ってパリサイ派の攻撃が始まっていくさまが描かれています。5章では、罪の赦し(17~26節)、取税人・罪人たちの受け入 れをめぐって(27~39節)、パリサイ派との衝突が始まる様子がすでに書かれています。福音と律法の対立と言えます。本章もまた、律法的な 安息日観と福音的安息日観の対立と見られます。安息日論争は、パリサイ派との対立を決定的にした要素のひとつでした(11節)。 そのような中で、主イエスの安息日観の鍵となるのが5節です。「人の子は、安息日の主です」というみことばの意味を、この脈絡の流れの中で汲み出してみたいと思います。 主イエスがお考えになっていた安息日とは、以下のようにまとめられるでしょう。
 ①安息日は人間のため(1~5節)――神が人間に与えて下さった恵み の休息の
 日 

 ②安息日は主のみわざが行われる日(6~11節)――癒し、励まし、 救い等。
 ③安息日はキリストが主とされる日(5節)――主のみわざが行われ、 「イエス・キリストは主」と告白され、キリストの栄光が現される日。

1.人間のための安息日(1~5節)

 事の発端は、弟子たちが安息日に麦畑を通って、麦を食べたことでした。当時の習慣では、これは盗み食いではありません。空腹な時は、他人の ぶどう畑や麦畑で、手で摘んで食べて良かったのです。貧しい人のための規定でしょう。鎌を使っての本格的収穫はいけません(申命記23章 24~25節)。 パリサイ人たちは、それが収穫労働にあたるとして、安息日律法に反すると攻撃してきたのです。当然主イエスは反論します。ダビデはサウルから逃れる時、ノブの祭司アヒメレ クのところに立ち寄って食物を求め、本来祭司しか食べられない供えのパンを部下とともに食べました(サムエル記第一21章1~6節)。マルコ の福音書2章23~28節、マタイの福音書12章1~8節に並行記事があります。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のた めに造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(マルコの福音書2章27~28節) 「人の子」とは、主イエスがご自分を指して用いた呼び名でもありますが、元来、詩篇などで「人の子」(ベン・ハー・アーダーム、詩篇8篇4節等)は、「人間」のことでし た。安息日は、人間に休息を与えるために神が設けて下さった恵みの日で、人間が安息日にために造られたのではありません。律法的安息日観は、 そのように本末転倒なものなのです。 日曜日に休めない、礼拝に疲れて出席できない…、出席しても居眠りばかり…
悩みは多いのですが、恵みの安息日ということをお忘れなく!

2.キリストのみわざが行われる日(6~11節)

 安息日についてのもう一つの論点は、主イエスの安息日の癒しでした。これもまた「労働」とされ、安息日に行なってはならないこととされてい ました。無論パリサイ派の律法解釈です(6~7節)。 主イエスは、彼らの考えをよくご存じで(8節)、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか、いのちを救うことなのか、それとも失うことな のか、どうですか」と問います。律法主義者というのは、こんな当たり前のことも杓子定規に律法に当てはめないと気が済まないのです。しかし、 主はそんな当たり前の事を、彼らに鋭く突き付けるのです。このあたり、律法を解釈する人々と、律法をお作りになり、真の意味を知っておられる お方との違いが明白に現れます。 小さなことですが、手がなえていることは、直接命には関わりません。しかし主は、敢えて「いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか…」と問われます。キリストのご 介入によって新しい人生が始まることは、いのちであること、その反対はいのちを失うことであることが現れています。 主イエスの癒しは行われました(10節)。そして、その良いことのために、主は命を狙われることになりました(11節)。 安息日は、労働のための日ではありません。しかし、主のみわざのために労を惜しまない日、主のみわざのために献身を新たにする日でありたいと願います。主のため、人のため に生きる人生をリセットするのです。

3.キリストが主とされる日(5節)

 「人の子」とは、先にキリストがご自身を呼ばれた呼称であると述べました。元来人間を意味した「人の子」(ベン・ハー・アーダーム)は、や がて預言者エゼキエルを指して用いられ(エゼキエル書2章1節、4章1節、5章1節、6諸王2節等々)、黙示文学的色彩を帯びて来ているよう です。そして、ダニエル書7章13~145節(アラム語部分)に至って、神から主権を与えられる終末的メシア的人物になってきます(ここで は、政治的困難を反映する黙示文学用法は明らかです)。さらにローマ統治下の一世紀になると、「人の子」はメシアの称号として用いられる例も ありました(外典『エノク書』)。主イエスは、ご自身を「人の子」と呼ぶことで、メシアだと暗に主張しておられたようです。 「人の子は、安息日の主です」とは、先に述べたように、「人間が安息日の主人公」という意味でもありましたが、同時に、それは主のみわざが行われ、「人の子」イエスが主と される日でもあったのです。福音書の安息日はユダヤ教の安息日(土曜日)ですが、このような主イエスのみことばの記録は、イエスこそ安息日の 主であり、イエスを主として礼拝する日、主イエスが復活された日曜日への安息日の移行を示唆しています。私たちの安息日を、
 ①神の恵みの日、
 ②キリストのみわざが行われ、キリストのいのちが与えられる日、
 ③イエス・キリストが主とされ、栄光が帰される日として、恵みに溢れ て過ごし
  たいと思います(ピリピ人への手紙2章5~11節)





 ホーム