「陶器師の手の中に」(選ばれた土の器)


      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理牧師
 



「「─ 主の御告げ。──見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの 手
の中にある。」
        (エレミヤ書18章6節)

●「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであっ て、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです。」 
     
    (コリント人への手紙第二 4章7節)
 




預言者エレミヤ(イザヤから百年後の人)は主なる神か ら、「陶器師の家に下れ。・・・」と命じられ、ろくろを回す陶器師の家に来た。その時、陶器師は、粘土で、器を制作中で、その器を、気に入ら ない(イメージに反する)時、「自分の手でこわし、再び、それを陶器師自身の気に入ったほかの器(彼のイメージのように)作り替えた。」ので ある。私たちは神のみ手の中にある粘土で、私たちはそれぞれの生活を通して、主のイメージに似たものに造られていくのである。「イスラエルの 家よ、・・・」とあるけれども、今日のクリスチャンや教会を見すえているのである。

1.選ばれた粘土(土の器の主権者)

私たちは日常生活の中で、使っている様々な器を思う。中には陶芸展などで、見事ですばらしい傑作で、たった一つでも、何千何百万円もする芸術 品もある。しかし、元はただの粘土で、陶器師の手のわざによるものである。
偉大な陶器師は、すばらしい陶器となる土(粘土)を知っている。それを選び、堀り出し、不純物(石、砂利、木の根など)を除き、水に溶かし、 叩き、ふるいにかけ、柔らかく、粘着力のある物にするために、数段階の土揉みをするそうである。
そのためには神の主権性を知り、土くれなる私たちを徹底して、主なる神のみ手に、まかせ、明け渡し、ゆだね切ることである。
「しかし、主よ。今、あなたは私の父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの
陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ書64章8節)
初代教会時代、サウロ(律法学者/サンヒドリン議員)はクリスチャンを目の仇にして迫害した。彼はエルサレム教会を荒し、家々から男女かまわ ずに投獄した。ステパノと言う敬虔な者を石打ちの刑にして、さらにダマスコ方面にいるクリスチャンへの、迫害に向った。この時、復活の主が、 「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するか。」と、天からを光を巡り照らして、迫害の指導者、サウロに迫った。「主よ。あなたはどなたですか。」 と言うと「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。・・・」と。─ 主の主権性を見る。
迫害される教会の祈りに応えて、主ご自身がサウロに迫り、回心させ、後にイエス
の宣教者となったのである。(「あの人はわたしの名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」〈使徒の働き9 章15節〉)

二、陶器師なる主は救い主

私たちは「罪過の中に死んでいた」者であったが、つまり、暗やみにうもれていた粘土のような者に、キリストが贖いの血を注ぎ、ただ信仰と恵み によって、生かし、陶器師のみ手の中の作品となしつつあるのである。(エペソ人への手紙2章1~10節参照)
陶芸家の椿 巌三(いわみ)さんは、1970年に上智大を卒業された方であるが、十数年、「神なく望みなくさまよった」(聖歌451)ので、 この聖歌が大好きとのこと。人としての生き方、ほんとうの心の充実を求めて、聖書を読み(全く理解できず)、ドストエフスキー、キルケゴー ル、ニューチェ、ハイデッカー、サルトルなど、実存の文学や哲学を読み耽り、仏教書も読み、修行の中にも答えを求め、座禅、古武術、少林寺拳 法、茶道にも励んで、三十歳になっていた。
炎の詩人と言われる河井寛次郎の作品に触れ、益子町の制陶所に入り、焼き物修行に明け暮れ、大層充実した日々となったとのこと。
修行四年目、これが「本当のいのち」の道なのかと悩み、トンネルの中にいる気持ちの時、一人のクリスチャンとの出会いによって、「人が救われ るのは行いによるものではない」ときき、もう一度聖書を読み直し、やがて教会へ通うようになった。
そして、小羊なるキリストが、神に打たれるべき罪人の身代わりとなったことを、伝道者から聞いたとき、「神に打たれるべき者とは自分のこと だ」と思い、イエス・キリストの十字架は、私のすべての罪をキリストが身に負って身代わりとなって死んでくださったことを知り、私は神の救い を信じました。
その時、大きな安堵が私をおおい、不思議な喜びが心に涌き出しました。この時、36歳となっていたとのこと。彼はキリストこそが「道であり、 真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ一四6)。目に見えぬ、罪だらけの滅ぶべき者の目が開かれ、すべての罪が赦されるとは、毎日毎日は喜 びと感謝の涙があふれてやみませんでした。と、あかしされている。〈現在、ベウラ陶房を創設し、製作に励む。〉

3.やがて神のみ前に立つ時

陶器師なる主によって、失われたイメージ(内なるイエス・キリスト)を回復出来るのである。私たちは砕かれ、柔らかいうちに、そのみ手の中 で、キリストの似姿にならせていただきたいと思う。ユダの人々は、捕囚の70年で、砕かれ、とり扱われた。主の恵みによる回復は私たちの信仰 にかかっている。




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