「新しい神の幸い」(平地の説教①)


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「イ エスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しださ
 れた。『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのもの
 だから。』」

       (ルカによる福音書6章20節)
        




ルカの福音書6章20節以下は、「平地の説教」と呼ばれ ます(→17節)。マタイの福音書5~7章の「山上の説教」と内容が重なるので対比して呼ばれるのでしょう。
 主イエスは、新しい神の民の土台である十二使徒を選び、宣教し、多くの弟子たちができました。その新しい神の民に語るのが平地の説教です。 20~26節は、彼らに与えられた「幸い」(マカリオス)を語ります。それは、いわゆる「仕合せ」ではなく、神からの祝福を受ける幸いです。
 20~23節は四つの幸い=祝福です。24~26節はその反対の「哀れ」です。それは警告的でもあります。つまり、神に祝福された、幸いな 神の民として歩むように勧められているのです。
 神に祝福された「幸いな」神の民の歩みとは、どんなものでしょうか。
それは、
 ①貧しい者として生きる、
 ②飢えている者として生きる、
 ③泣く者として生きる、
 ④救い主のために憎まれる者として生きる、
 というように要約されるでしょう。

1.貧しい者として生きる(20b節) 

 最初の「幸い」は、「貧しい者」に与えられます。
 「貧しい」(プトーコス)とは、物乞いをする者、乞食という意味です。マタイが「心の貧しい者」(マタイの福音書5章3節)と言うのに対 し、ルカは単に「貧しい者」と言います。霊的なことばかりでなく、すべてにおいて神に求める心がある者。神に与えられることなく生きることが できないという姿勢を持つ者ということでしょう。
 彼らに与えられるのは、「神の国」です。貧しさを知って求める者への報いの根本は、目の前の必要以上に、神の国すなわち神のご支配、神の救 いです。「心の貧しい者」(霊において乞い求める者)と言うマタイは、その素朴な表現の根本的意味を明らかにしたと言えます。
 「神の国」は、祝福のすべてを要約します。四つ目の幸いでも、天での報いが約束されます(23節)。この約束は、「神の国とその義とを第一 に求めなさい。そうすれば…」と言うマタイの福音書6章33節に通じるものがあります。
 この貧しさは、22節で「人の子のため…」と言われるように、キリストにある貧しさです。それは、キリストを信じるゆえに迫害などで実際に 貧しくなった者でもあるでしょう。あえてキリストのために貧しさを選んだ人、キリストを信じるがゆえに神に必要を求める心が起こされた者で しょう。
 私たちは、あらゆる必要を神に求めているでしょうか。神こそがすべての必要を満たすお方と信頼して生きているでしょうか。

2.飢えている者として生きる(21a節)

 第二の「幸い」は「いま飢えている者」に与えられます。「いま」は、現在の状況と、神が介入される時の祝福及び終末的祝福を対照させていま す。
 「飢えている」は、文字通り食物がなくてお腹がすいている状態です。マタイの福音書5章6節に対し、シンプルで、あらゆる飢え渇きを含むよ うです。
 彼らへの祝福は、「やがてあなたがたは満ち足りる」です。「満ち足りる」は食べて満腹することですが、受動態です。神が満たして下さるので す。
 これは、「貧しい者」と似た意味ですが、神が満ち足らせて下さるという約束がここにあります。もちろんそれは未来です。終末は言うまでもあ りませんが、神が介入されるとき、私たちは霊的にも肉体的にも必要が満たされるのです。それは、神の国=神の救いから来る祝福です。ここで も、キリストを信じるがゆえに、キリストにあって飢えているということでしょう。
 五千人の給食でも、このことばが用いられます(ルカの福音書9章17節、マタイの福音書14章20節、マルコの福音書6章42節。マタイの 福音書15章37節、マルコの福音書8章8節も参照)。人々が皆満腹してさらに余り、十二弟子たちにも十分な食料が残されたのです。私たちの 霊肉の飢え渇きを、すべて神に持って行きましょう。

3.泣く者として生きる(21b節)

 第三の「幸い」は「いま泣く者」に与えられます。ここでも、「いま」が、後の神の介入の時、終末と対照させています。
 「泣く」、「笑う」は、マタイより素朴な表現ですが、「笑う」は神に慰められて笑うようになることでしょう。「満ち足らせられる」と言う前 節からも容易に推察できます(24節も参照)。
 キリストを信じたために受ける悲しみもあります。罪を悔いる悲しみ、友を失う、家族で孤立、迫害、嘲笑、困難、貧乏等々…。しかし、神がご 介入下さるときに、それらはすべて、大きな喜びに変わるのです。

四、救い主のために憎まれる者として生きる(22~23節)

 第四の「幸い」は「人の子のため」憎まれる者に与えられます。
 「人々があなたがたを憎むとき…除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき…」(22節)と言われます。
 「憎む」とは、嫌悪することです。「除名し」とは、線引きする、区別する、除名することから、宗教的破門=社会的村八分を意味します。「辱 め」は、ことばで責め、貶め、恥辱を加えることです。「名をあしざまにけなす」とは、彼らの名を邪悪なものとして投げ出す、排斥することで す。
 彼らに用意されているのは天での報いです(23節)。だから、迫害のさなかで喜ぶことができるのです。
 24節最後の「彼らの父祖たちも預言者たちに同様にした」ということばは、迫害されてもキリストを信じ通し、福音を伝えることを暗示しま す。キリストを信じる者を、世が愛するはずがありません。迫害され、憎まれることこそキリスト者のしるし、天の報いの保証と言えるでしょう。
 24~26節は、すべて「幸い」の裏返しです。「哀れ」(ウーアイ。嘆きの感嘆詞)は、「わざわい」とも訳されます(マタイの福音書23 章、コリント人への手紙第一9章16節)。神の幸いを拒否し、キリストを捨てる人生は悲惨です。キリストを信じる道は、安易ではなくとも、永 遠の祝福に満ちているのです。




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