「平安を与える計画」(神の救いの約束)


      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理 牧師
 



「「わ たしはあなたがたのために立てている計画をよく
 知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわい
 ではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将
 来と希望を与えるためのものだ。」

          (エレミヤ書 29章11節)
        




1.戦いではなく平安〈シャローム〉

罪深い人々は神に敵対し、昔も今も、平安(平和)どころか、人とも争い、平安が心の内にあるどころか、神との関係もよくない。
シャローム(完全な意味であなたの心に平安があるように)と、中東の挨拶になっているが、昔から争いの多い地であったので、真の平和、平安、 安心を求めていたのである。幸いなことにエレミヤはここで、その真の平安を神は愛のゆえに計画し、用意して、審きや呪い、恐怖でなく、神の救 いの計画として「平安」を備えていると言うのである
(○参ローマ人への手紙5章1節)。

2.エレミヤの手紙(捕囚の民へ)

BC五九七年、バビロンへの捕囚の民となって行った者は3023人で、エレミヤは捕囚70年と言っているのに、にせ預言者ハナヌヤは二年と言 い、「バビロンの王ネブカドネザルのくびきを、・・・砕く。」などと、人間的な慰めを勝手に語った。いつの時代も、本物の主のことばに対し て、ニセ物も横行したのである。
しかし、真実なエレミヤは人々から拒否されたり、迫害をうけても、主からのメッセージ(真理)を語った。4節から23節に4つの鍵となること ば〈思想〉が記されている。

第一は「家を建てて住み、畑を作って、・・・妻をめとっ て、・・・そこでふえよ。減ってはならない。」そして、「その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるの だから。」(勧告) 〈67〉。
たとえ、捕囚の身であっても、主が置いて下さったところで、主の祝福を祈り、繁栄することは主に信頼する者の証しであり、恵である。まさに、 アブラハムの様に、異教の地でも、信仰によって「祝福の基」 (あなたも)となることは、キリスト者の倣うべき姿である。
第二は「警告」で、ニセ預言者、占い師、夢物語にだまさ れるな。主なる神が70年と言ったら、たとえ、異教の偶像国であっても、簡単に主の定めた時(試練)を変えるはずがない。
第三は(約束)として、必ず、バビロン(この世の捕われ 人)のユダの人々は、祈り、待望する者に、「顧み、・・・約束を果たして、」帰還がなされると言う。
神の救いへの約束が実現するためには、神に背いた事実(罪)を認め、真剣な悔い改めの祈り、神に会う切なる祈りが必要であった(「わたしに祈 るなら・・・聞こう。・・・心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、・・・わたしを見つけるであろう」〈12、13〉)。
第四は、ニセ預言者に耳をかし、真剣に主なる神のことば に聞こうとしない者たちには審き(のろいと恐怖)の予告(15~20)がされている。
ヘルムート・シュルツ師(OMS宣教師/1931~2002年、16才で回心し、71歳で召天)のこと。私が画家志望で、芸大受験を失敗し、 浪人生活をしていた時、戦後復興期の各地で、教会建設のために福音十字伝道隊と言う天幕伝道がOMS(宣教団体)によってなされていた。その 働きに関わった時、まだ、20代の青年宣教師シュルツ師に出会い、寝起きを共にしながら忘れられない恵みに与った。彼はよく祈る人で、福音宣 教のスピリットで燃え、輝いていた。
彼はカナダの開拓農民(アルバータ地方)の子で、家族は両親と姉二人と妹との六人家族で、農家の跡とり息子であったが、献身して、日本のため に祈り送り出していた敬虔な家族であった。
シュルツ家の父祖はドイツ人で、後にロシアのウクライナ開拓農民として純朴で、勤勉な家族であった。
ドイツの皇女カテリーヌⅡ世は16才でロシアのピヨートルⅡ世と結婚した。やがて、夫ピヨートルⅡ世が亡くなり、カテリーヌがロシアの女帝と なって(一七三〇~一七九六年)、冷徹なきびしい統治を行った時、女帝はドイツ農民に土地、宗教上の自由、兵役と税金の免除をし、ドイツ語と その文化の保全を約束して、ロシアへ招き入れた。
彼の父祖たちは一七〇〇年代にロシアの穀倉地帯ウクライナに落ち着いた。
しかし、一九一四年、第一次世界大戦が始まると、ロシアはドイツに宣戦しウクライナの農民は内陸、シベリアの方まで、移民輸送され、ある者は ロシアの兵役についた。そのような時、彼の両親や親戚たちは、農地を手ばなし、家具を売って、カナダへ移民の道をたどって、開拓農民の苦労を なめた。
せっかく築いたものが崩れる時、ルター派の聖書の福音が素朴な人々の間に燃え広り、リバイバルが起こり、その霊の火をもって、カナダへの移民 農家の人々の心を燃え立たせた。カナダへ移民したシュルツ師の両親も親戚の叔父さんも、開拓農業といっても大変苦労した日々であったが愚痴一 つこぼさないクリスチャン家庭で、教会へは日曜毎に通っていた。
16才の時、礼拝堂のベンチの奥の席に座り、牧師のメッセージを聞かないふりをしていた。ところが、友人の手が賛美歌を歌いながら震え出し、 涙と共に「シュルツ!前出よう!」と言って祈りの座に共に出て、悔い改めの祈りをすることになった。不思議な気持ちになって、イエスの十字架 による救い(平安)を受け止め、青年リーダーとなり、後に、日本への宣教師として30年以上も働いたのであった。




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