「敵を愛する」(平地の説教②) KFG志木キリスト教会 牧師 松木 充 牧師
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五月の第二主日は、母の日です。アメリカで、アンナ・ ジャービスさんが、南北戦争で敵味方なく看護するなどして主に仕えた母を偲び、教会でカーネーションを配ったことに始まります。娘に、教会に 慕われたアン・ジャービス女史の愛の働きは、本日の聖書箇所にも関わるものでしょう。 「幸い」と「哀れ」(20~26節)の教えでは、イエスを信じる神の民への神からの祝福が、警告とともに語られました。27節からは、人との 関係、本当の愛について語られます。それは、キリストのために憎まれる生き方の幸い(22~23節)と、そうでない哀れの教え(26節)から の発展です。すなわち、キリストを信じ、神から幸いと言われ、祝福を受ける者たちだからこそ、命じられている愛なのです。 敵への愛とは、すなわちキリストを信じる人たちを憎む人への愛です。自分を敵視する人を敵とは思わないで愛する愛、本当の隣人愛です。 ここで気づくのは、敵への愛が非常に具体的に語られていることです。それは多岐にわたります。 私たち、キリストを信じる者は、敵を愛するべきです。それは、具体的な愛し方が教えられているからであり、なぜ愛するべきなのかが教えられて おり、そこに報いがあると約束されているからです。 1.敵を愛する具体的方法(27b~31節) 主イエスは、敵の具体的愛し方を教えています。 「あなたを憎む者に善を行いなさい」(27b節)は原則です。 のろう者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさいと言われます(28節)。「のろう」も「侮辱する」も、ことばによるものです。彼らに対して は、祝福のことばを語り、彼らのために祈るのです。 「片方の頬を打つ者」、「上着を奪い取る者」は、具体的行動に出てきた迫害です。抵抗しないことが勧められます(29~30節)。もちろん、 単なる犯罪は、さらなる犯罪抑止のため、警察に通報すべきですが…。 31節「自分がしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」は、原則的なまとめです。マタイの福音書7章12節では、「これが律 法であり預言者」(旧約における神の教えのすべて)という注釈がつくほどの原則です。してくれたことへのお返しではありません。誰も自分がし てほしいようにしてくれなくても、それでも自分がしてほしいと思うようにしてあげることです。 34節には貸すこと、37節にはさばかないことも語られます。このように、愛は具体的なものなのです。 愛は、具体的にことばによって、行動によって表現されます。それを、特にキリストを信じているがゆえに敵視してくる人に対して、行うのです。 2.敵を愛する理由(32~34節)――世と異なる愛 ここには、敵を愛する理由が述べられます。それは、キリストの弟子は世と同じではないから、その愛も世と同じであってはならないからです。 32~34節には、「罪人たちでさえ」と繰り返されます。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛し(32節)、自分に良くしてくれる人に良くし (33節)、返してもらうつもりで(取り返すつもりで)貸します(34節)。 「罪人たち」とは、イエス・キリストを信じない人たち、すなわち罪の赦しを受けていない人たちのことでしょう。人間はすべて罪人です。神の ことばに逆らったアダムとエバの子孫です。あえて弟子たちと「罪人たち」を区別するのは、キリストによる罪の赦しを受けたかどうかの違いで しょう。 キリスト者の愛は、この世で考えられている「愛」の上を行くものでなければなりません。それは、私たち自身が、大きな神の愛で愛され、赦され ているからです。それは、35~36節でより明らかになります。天の父のあわれみを受けた者だからこそ、世と違った愛し方をするのです。 3.敵を愛する報い(35~38節) 敵を愛する愛には、すばらしい神からの報いがあります。 最も根本的な報いは、「いと高き方の子どもになれる」ことです(35節)。「いと高き方」とは、言うまでもなく神です。神は、恩知らずの悪人 にもあわれみ深いのです。(だから私たちもあわれみを受け、救われた。) 「いと高き方の子どもになれる」とは、神の子どもとしてその性質を受け継ぐことができる、ということです。キリストを信じて罪赦された者は、 すでに救われた神の子どもです。しかし、神の子どもらしい性質を身に着けていき、父である神に似ていく成長は、そこから始まります。 天の父のあわれみ深さにならうのは、天の父の子どもだからです(36節)。ただ、私たちの「あわれみ」は上から下ではありません。神から受け たあわれみを分かち合うものです。同じ罪深い人間であることを忘れて、上から下へと接したら、御子をお与えになられた神の愛、低いところに 下って来られたイエス・キリストの愛を伝えることはできません。 それは、さばかないことにも現れています(37節)。人をさばくのは神と主イエスのみです。さばかない者は、神にさばかれません。赦す者は神 に赦されます。これも、敵をも愛する愛への神からの報いです。 最後を締めくくる報いは、与えれば与えられることです(38節)。「情けは人のためならず」という諺は、めぐりめぐって自分に返ってくるとい う人間社会の知恵ですが、ここでの報いは、人から来るものなのですが、神からの祝福としての報いです。 テキサスでの社会生活では、差別も受けました。東洋人の夫婦は近所で私たちだけだったためか、卵を家に投げつけられたり、盗難に遭ったり、近 所の子どもにいたずらされたり、指差されたり、見ただけで嘲笑されたり…。それで近所づきあいを一切やめました。しかし、帰国する前に心が落 ち着かなくなり、彼らを赦さず、愛さず、良い隣人でなかったことを謝りに行きました。心晴れやかに、主の導きに従って日本に帰ることができま した。 |