「岩の上の人生構築」(平地の説教③)


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「そ の人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据え
 て、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、
 川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられ
 ていたから、びくともしませんでした。」

         (ルカの福音書6章48節)
      




人は、「イエスは主」と信じて告白すると、救われてキリ スト者となります(ローマ人への手紙10章9~10節)。そのように救われたキリスト者は、口先だけではなく、ことばと行動で「イエスは主」 と告白して生きる者です。
新しいイスラエルの土台となる十二使徒が選ばれ、主イエスが彼らとともに宣教して起こされた弟子たちに、新しい神の民への教えとして語られた 平地の説教。この部分は、その結論です。
 46節に言われる「主」のことばを行わないことは、42節の「偽善者」に通じるもので、39~49節は一貫した教えと見られます。
 それは、マタイ六章の偽善者(パリサイ派)を警戒する教えに比べ、神の民が偽善に陥らないようにという意味合いが強いでしょう。
 それでは、偽善に陥らないためにどうすればよいのでしょうか。それがみことばを行う者になるということです。それが、ことばでも行動でも 「イエスは主」と告白する生き方、真の神の民の生き方と言えるでしょう。
私たちは、「イエスは主」と告白する神の民として生きることができます。それは、①本質から変えられることによって(39~45節)、②みこ とばを行うことによって(46~49節)です。

1.本質から変えられる(39~45節)

神の民にふさわしい生き方は、私たちが根本から変えられることによって可能です。
ここには、大きく三つに分かれることが語られます。盲人が盲人を手引きするたとえ(39~40節)、自分の目の梁に気付かず、他人の目のちり を指摘する偽善者(41~42節)、良い木と悪い木、良い人と悪い人の心の良い倉(43~45節)です。
霊的に盲目であると、人を導こうにも導けません。二人とも穴に落ち込みます(39節)。続く40節は、肯定的にも、否定的にもとれますが、弟 子は師以上にはならないという否定的な意味と思われます。
 41~42節の「偽善者」(ヒュポクリテース)は、俳優のことです。古代ギリシャでは仮面を着けて演じました。偽善者は、本当に良いことを 行っているのではなく、演じている、ふりをしているのです。
 木の実や倉から出す物のたとえ(43~45節)は、良い人間からしか良い実、良い物が出てこないことをよく示しています。
罪人に過ぎない人間から良い物、良いことばが出てくるためには、人間が本質的に変えられなければなりません。霊的盲目も、目が開かれなければ 治りません。
人間が罪を赦されて救われ、変えられるのはキリストの働きです。キリストが十字架で死んでよみがえって下さったのは、私たちの罪が赦されるた めでもありますが、キリストとともに死んでよみがえって、新しいいのちに生きるため、新しく生まれるためです。
悪いことばしか出てこなかったり、自分のことは棚に上げて、人のことばかり気になってしまったりしないでしょうか。誰にでもでなくても、ある 特定の人に対しては…という場合もあるでしょう。そのような問題を指摘するのが、みことばです。これまで見えなかった問題が見えるのが、神の 民らしい生き方に変えられることの始まりです。みことばの指摘を聴きましょう。

2.みことばを行う(46~49節)

神の民にふさわしい生き方は、みことばを行うことによって可能です。
先にも見たように、46節は、イエスを主と呼ぶ者にふさわしく生きないことを戒めています。イエスのみことばを行うことが、イエスを主と呼ぶ 者の生き方です。そして、そのたとえが始まります(42節)。
 マタイの福音書7章24~25節は、砂地ではなく、岩の上に建てられたという一点に違いがあります。ルカは、「地面を深く掘り下げ、岩の上 に土台を据えて、それから家を建てた…」と描写が詳しくなっています。
 マタイは、イエスのことばか、他の教えか、という二者択一の決断を迫る教えなのでしょう。ルカは、それほどシャープな二者択一はなく、みこ とばを行うにはそれなりのプロセスがあることを示しています。
 「地面を深く掘り下げ」は、みことばを学び、行えるようになるまで追求し続けるような、深い求めを示唆します。そして、たどり着いたみこと ばの深い意味の上に、みことばを実行できるように変えられたキリスト中心の生活の上に人生を建てる、というようなことを示唆します。
49節は、「土台なしで地面に家を建てる」と簡単に表現されます。警告的な意味で付加された表現と思われます。
 このようなマタイとルカの表現の違いは、書かれた時の状況の違い、想定された読者の違いにもよるのでしょう。マタイはパリサイ的偽善者の問 題を解決する必要があったユダヤ人キリスト者をおもに対象としており、ルカは、求道し始めて初めて聖書に触れたような異邦人キリスト者を対象 として書かれたという背景もあっての描写でしょう。
祈祷会があった五月二十四日(木)は、ジョン・ウェスレーのアルダースゲートの経験の記念日でした。週報にも載せてありますが、ウェスレー は、主に喜ばれる善い行いを懸命に追求しました。オックスフォード大学時代は善行に励み、卒業後はアメリカ宣教に行きました。しかし救いの確 信もなく、心の平安もなく、多くの批判を受け、失意の内に帰ったロンドン――。そして、アルダースゲート街の集会で、ルターの『ローマ書講 義』序文の朗読を聞き、「信仰とは、私たちの内における神の働き」というくだりに心が熱くなり、造り変えられるのです。必要なのは私たちを造 り変えるイエス・キリストへの信仰、神の働きにゆだねる信仰です。そこに、みことばを、みこころを行う者に造り変える神の働きが始まるので す。





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