「涙の夜から喜びの 日々へ」(神のもとに帰れ) KFG志木キリスト教会 主任牧師 久保 真理 牧師
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1.人々の罪が聖都を崩壊させた 日本の各地にいわゆる城が三万ヵ所あると言われる。熊本に聖会のご用に行った時、先生方から「ぜひ、熊本城を見学しては?」と言われたが、残 念ながら、加藤 清正の建てた城を見ないまま帰宅した。しかし、その後、地震で、崩れかけて、業者が億単位の経費をかけて修復しつつある。熊本の人々は「この城は復興のシンボル」といって いる。 難攻不落と言われたエルサレムの城壁が崩され、バビロンの軍隊によって神殿も荒され、BC586年には火で焼かれ、見る陰もない荒廃の地に なった。「ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。・・・彼女を尊んだ者たちもみな、その裸を見て、これを卑しめ る。・・・だれも慰める者がいない。」(哀歌1章1~9節)。 エルサレムの城壁や神殿は、ソロモン王の時に、唯一の真の神をあかしし、聖なる神を真心をもって礼拝すべき場所であった。 預言者エレミヤは人々が偶像礼拝に妥協し、、様々な罪を犯し、主なる神から心離れて、神殿や儀式、伝統や習慣に依存している姿に泣いて、神 に帰り、悔い改めるように、40年間も叫んできたが、耳を傾ける者はいなかった。 その結果、神の計画は預言者が語ったように、確かに、バビロンの勢力をもって、聖都エルサレムを滅ぼし、民を70年間捕囚として、バビロンへ つれ去ることを、実現したのである。 この歴史の事実は、神のことばの確かさ、真実に、私たちも聞く耳をもつべきである。 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」(詩篇127篇1節) 2.私たちのためにとりなす祭司 「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。・・・あなたの幼子たちのために祈 れ。」(哀歌2章19節) 神のことばは語られた通りに審きをおこない、たとえ、敵であっても、憐れみのゆえ、幼子や心素直な人々のためにとりなしの祈りをする祭司を用 意しておられる。それは涙の預言者エレミヤであり、後に到来したイエス・キリストである。 (「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」〈Ⅰテモテへの手紙第一2章5節〉 二千年前、御子なるイエス・キリストが預言の成就として到来し、人々に神の教えを語った時、心かたくなな人々のために、イエスは「ああ、エル サレム、エルサレム。・・・わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あな たがたはそれを好まなかった。」(ルカによる福音書13章34節/○参19章41節~/○参ヘブル人への手紙7章25節)。と、涙の祈りをし ている。 そして、ついには十字架上に「父よ。彼らをお赦しください。・・・」と、罪なきイエスが罪人のために、死んで、救いの道を開いて下さった。た とえ、神殿は破壊されても、復活したイエスは、各人の心を宮として内住する道を確立した。これこそ、神が私たちのために備えた恵みで、福音の 奥義である。 3.神に帰る道(悔い改め) 「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」(哀歌3章40、41節) ①神の恵みを受けとる私たちは、聖なる神の前に、自分の道が正しいか 否か、調 べ、吟味して意志的に「立ち返ろう。」と言う ②放蕩息子が「我に返った」ように、罪を認め、告白する(ルカにyぽ る福音書 15章11~24節参照)。 ③「私たちの手をも心をも・・・神に向けて上げよう。」とは神への降 服、明け 渡しを意味し、表面的でなく、内実のある悔い改 めが求められている。 先日、斉藤 諒(りょう)(磐田在住〈25〉)と言う人から印刷したあかし文が送られてきた。高校2年生の時、交通事故に遭って、首から下が動かせず、四肢麻痺、人口呼吸器装着で生か された。小学生の頃から野球少年で、高二で、正捕手になり、来年には甲子園出場を意気込んでいた時だった。死にたい思いに駆られた。加害者は 27才の男性で、自動車保険の期限切れで、賠償金が一銭も出ないと言うことで、加害者に対して憎しみが湧き、家族も心穏やかではなかった。 事故から五ヵ月後、辛くて死にたい絶望的人生に、野球部の先輩から聖書を勧められ、クリスチャンや難病から癒された牧師が病院に来て、キリス トを救い主として信じ、祈る時をもった。その結果、加害者を赦し、今では両方の家族が同じ聖書を学ぶ仲になり、彼の父親が加害者の父親の職場 の世話までして、事故の賠償金の裁判も、とりさげ、弁護士をおこらせたりした。 この斉藤君は、あごでパソコンを打ち、通信制の大学で学び、二ヶ月かけて、電子書籍「斉藤 諒の生きる力(四肢麻痺・人工呼吸器装着の僕が伝えたいこと)」(176頁)を文芸社から発刊することになったと言う。 一見、不幸な出来事が、救い主との出会いとなり、被害者、加害者の両家族が和解し、共にクリスチャンとして、集会に出席している。何と言う奇 跡であろう。 |