「罪を赦すイエス」(罪深い女の信仰) KFG志木キリスト教会 牧師 松木 充 牧師
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罪が赦され、救われて、安心して生きていくことは、人間 にとって大切なことです。現代は不安の中にある時代です。大雨で多くの死者、行方不明者が出ています。近年の異常気象は、大きな不安を与えて います。 また、オウム真理教教祖はじめ七人の死刑執行がありました。異常な思想、異常な犯罪、関与した人たちも洗脳の被害者ではないかと死刑に反対し ていた被害者遺族、死刑を執行した政府――。安心できない難しい時代です。 本日の箇所に登場するのは、イエス、パリサイ人シモン、そして入って来た「罪深い女」です。 今回とばした29~35節は、バプテスマのヨハネの疑問に対して、さらにヨハネとイエスを自分勝手に扱った人々についてイエスが語る場面で す。並行記事マタイの福音書11章2~19節の説教(2017年11月12日)と似た内容になるかと思いますので、割愛しました。過去の週報 要約をご参照下さい。 36節以下のパリサイ人シモンは、イエスを自分勝手に扱った実例のような人です(44~45節)。イエスはラビに付いて学んだ教師ではなかっ たので内心見下げていたのか、家に招いたものの非礼を働いています。「イエスとはどんな者か、見てやろう」という気持ちだったのでしょう (39節)。 そこに、品行方正、律法・戒律遵守のパリサイ人シモンとは対照的な「罪深い女」が入ってきます。37節「罪深い女」は、「非常に罪深い女」と 原語に記されています。売春婦だったか、性的魅力を武器に結婚離婚を繰り返していた女だったか、人々に非常に罪深いと思われていました。 彼女に対し、主イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」と救いを宣言します(50節)。「安心して行きなさい」 は、「平安へと行きなさい」(Go into peace)と直訳されます。救われて、ここから先は平安な生活に入っていくのだと保証して下さったのです。 この出来事は、どんなに罪深くても、イエス・キリストを信じる者は救われ、平安な人生へと入って行けることを示しています。救いを得させるの は、 罪人が持つ信仰であり、信じる者へのイエスの罪の赦しなのです。 1.罪人が持つ信仰 救いを得させるのは、イエス・キリストを信じる信仰です。 この女は多く赦されたので、多く愛したと言われます(47節)。 主イエスは、たとえから、多く赦された者と少し赦された者と、どちらが多く愛するか、シモンに問います(41~43節)。もちろん、答は多く 赦された者です。 多く赦されたと自覚する者は、自分の罪を知っています(認罪)。彼女は、この場面より前にどこかでイエスと話すか、その教えを聞いてイエスを 信じ、罪の赦しを経験したのではないでしょうか。 彼女のイエスへの愛の表現は、シモンの非礼と対比されます。 シモンは足を洗う水をくれませんでした(44節)。当時の習慣では、招かれた人は水浴して行きますが、埃っぽい道をサンダルで行くので、招待 する側は足を洗う水を用意しました。シモンは、当然の礼儀を欠いたのです。女は、涙でイエスの足を濡らして髪の毛で拭います(38節「泣きな がら」)。 シモンはイエスに口づけしませんでしたが、女はイエスの足(洗ってないので埃だらけだったでしょう)に、何度も口づけしました(45節)。 シモンはイエスの頭に油を塗りませんでしたが、女は足に香油を塗りました(46節)。高価であったことは想像に難くありません(マルコ一四 3~9、ヨハネ一二1~8参照)。パレスチナでは、乾燥と砂埃で髪の毛がパサパサになりました。頭に油を塗るのは、やはり主人の歓待の現れで す。 パリサイ人シモンより多くイエスを愛した彼女の愛を、イエスは「信仰」と呼ばれました(50節)。その信仰が、確かな救いを彼女に得させたの です。そのようにイエスを心から愛し、仕えていた婦人たちはたくさんいました(八1~3)。そのような人は現代に至るまで数えきれません。罪 を赦されたと信じ、主イエスを心から愛し、仕える人々に、今も主は「あなたの信仰があなたを救った!」と言って下さるのです。 2.イエスの罪の赦し イエスを信じる信仰によって罪が赦され、救われるのは、イエスが罪を赦して救いを確かにして下さる救い主だからです。 「罪深い女」は、ここで一言も発していません。つまり、一切口での信仰告白はしていません。しかし、主イエスは、彼女の主への愛を表現する行 動を通して彼女の信仰を見て下さったのです。 スポーツの専門家でなくても、多少目の肥えたファンなら、選手たちが疑問の残るプレーをしても、なぜそのプレーを選んだのか、その心理がある 程度わかるものです。まして神の御子イエスは、一言も発しなくても、心の中の信仰をつぶさに知っていて下さいます。 主イエスは、彼女の罪が赦されていることを説明し(47節)、そして女に対して、「あなたの罪は赦されています」と宣言します(48節)。今 赦されたのではなく、すでに赦されていると保証するのです。 客観的に罪の赦しを語って、さらに女に向かってじかに罪の赦しを宣言するこの場面は、示唆するものがあります。信仰と罪の赦し・救いは、聖書 に一般論として客観的に書かれています。しかし、主イエスは、それを聖霊によって、私たち一人一人に語って、救いを保証して下さるのです。 その場に居合わせた人々は問います。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう」(49節)。このお方こそ、全世界の罪の身代わりと なって十字架にかかり、人々の罪を贖う神のひとり子、神に等しい「主」です(→19節、13節)。そのようなお方だから罪を赦す権威があるの です。 主イエスは、今日も聖書から、聖書に基づいた説教や教えから、みことばを私たちの心にお語りになります。そこにこそ、救いの保証があります。 |