<召天者記念礼拝>

「キリストは眠ったものの初穂」(神と共に生きる者へ)   


      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理 牧師
 

 

「「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移
 されました。神に移されて、見えなくなりました。移さ
 れる前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされて
 いました。」     
          (へブル人への手紙11章5節)

●「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者
  の中から蘇られました。」

         (コリント人への手紙15章20節)




1.こうして彼は死んだ (創世記五5)

神が人を創造した時に、死なない者、永遠に生きる者で、神の愛の対象、交わりの存在として造られた(創世記二7)。しかし、神はエデンの園の 中央に「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(17)と言う、約束(ルール)を置か れた。神と人との関係をねたむサタンは美しい蛇の姿(当時は人に近づきやすい姿だった。)を利用して、エバを誘惑して、「食べるのに良く、目 に慕わしく、賢くする」と言う、その実をとって食べ、夫にも与えたのである。
その結果、人が死ぬ者となって、このエデンの園から追放されたのである(○参創世記3章24節)。この結果、人は生まれながらの罪人(原罪) となり、神の祝福を失った。それで、「アダムは全部で930年生きた。こうして彼は死んだ」(五5)。それに続く、セツは912年、エノシュ は905年、ケナンは9190年、マハラルエルの一生は895年、エレデでは九六二年で、千年前後は生きてる者となっている。しかし、彼らは 「こうして彼は死んだ」と明記されている。今日においては約百年も生きれば、長生きの方で、とても永遠と言うわけにはいかない。(創世記5章 5~20節)
ところが、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(五24)つまり、神の臨在の中に生きたエノクは死を見 ずに、そのまま、神のもとへ取り去られたのである。暗い罪深い世にあって、神と共に歩んだ者への神の恵み、特権である。まさに人々への光(希 望)である。(五21~24)
預言者エリアも「火の戦車と火の馬」のたつまきに乗って、天に登って行った(列王記第二2章11節~)
後に、キリストは復活した姿を五百人の弟子たちに示しただけでなく、オリーブ山上から、天にあげられ、雲に包まれ、見えなくなった。しかし、 やがて、その様に、再臨(再びキリストはおいでになる)されると約束された。これも、クリスチャンの希望である(使徒の働き1章9~11 節)。

2、死ぬべき人を贖い、永遠のいのちへ

●「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 (ヨハネの福音書12章224節)
幸い愛と憐みに富む神は、その独り子イエスを、預言通り、二千年前に、この地上に遣わし、私たちの罪をすべて、ご自身に背負われるために、十 字架への道を歩まれた(イザヤ53章参照)。―その生涯は律法を全うし、聖なる御方であることを証明された。その上で、十字架上に、贖いと なって信じる者を救う道を用意して下さった。
そして、イエスは「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられ」て、私たちが復活し、神と共に永遠に生きる者としてくださったのである。
三浦綾子さんは重い結核患者 (13年の治療生活)であったが、クリスチャンとの出会いによって、救いに与り(1952年のと7月25日受洗)、三浦光代さんと言うすばらしいクリスチャン伴侶に支えら れて、四十年、聖書に土台した小説を通して福音をあかしした。晩年はパーキンソン病と戦いながら、何冊かの小説を口述で書き続けている。最後 は遺言もなく、意識不明が(38日間も病院で、)続き、彼女はいっさいを神にゆだね、全てを良いようにご用意くださるようにと祈り、「死ぬと 言う仕事」を終えて、天に召されていった。

3.神は彼らとともにおられる

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、・・・」(黙示録 21章 3節)天国は真珠の門を通ったり、宝石や黄金でつくられていると言う以上に、神の永遠の住まいで、神と人とが共におられることが重要なことである。つまり、神の臨在の輝き に満ちている。
そこは未知であるとともに、「永遠の家」 (Ⅱコリント人への手紙5章1節)で、なつかしい所である。多くの人は行ってみなくてはわからないと言う不確かなものではない。すでに地上にいるうちから、体験できる内住 のキリストである。
事実、「神の国はあなたがたのただ中にある」 (ルカの福音書17章21節)と満ち足りる恵みである。
三浦綾子さんの小説「氷点」に、洞爺丸の沈没事故の件が挿入されている。その中に登場してくる宣教師の話がある。これは、事実で、実際には二 人の宣教師ストーン師とリーバー師があの船に乗っていた。この二人は救命具を身につけていたが、若い人にこの救命具を沈みゆく船の中で、ゆ ずって、海の中に消えていった。まさに、宣教師の心にキリストによる平安がなければ、いのちをかけて人を助けることは出来ない。
また、「ちいろば先生」と言われた榎本保郎牧師は、同志社大学の神学生の頃から開拓伝道し、ユーモアのある聖書の解き明かしで、人々に福音を 語った。日本の各地のみか海外にまで、招かれて、燃えて主に仕えた。肝臓障害の持病があるのにもかかわらず、南米への伝道で、機上の人となっ た。しかし、機内で吐血、52才で、、天に召された。当時、病院へ駆けつけた辻本牧師は、「実に平安な目を見せていた。いささかのいら立ちも 不安もなかった。幼児のように、澄みきった目であった。」と記述されている。






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