「みわざを受ける信仰」(長血の女とヤイロの娘) KFG志木キリスト教会 牧師 松木 充 牧師
|
|
「信じる」というと、疑いを全く持たない、疑いを押し 殺す、というように考える人も多いでしょう。しかし、聖書においては、かなり多様な「信仰」の姿があります。 今日の聖書箇所は、イエスの奇蹟的なみわざを受けた二つのケースですが、その二つは、マタイによる福音書9章18~26節、マルコによる福 音書5章22~43節にも記録されており、三福音書は、すべて二つをセットにして記録しています。 会堂管理者ヤイロの娘が病気で死にかけていて、それを治しに行く途中、十二年間長血を患っていた女性が群衆に紛れてイエスの衣にさわって治 り、イエスが隠れている彼女を呼び出してことばをかけます。そして、そうこうするうちに、ヤイロの娘が死んでしまったと知らせが来ますが、主 はヤイロ家に行き、その娘を生き返らせるという出来事です。 これらの一連の出来事に共通しているのは、信仰です(48、50節)。信仰をテーマにした出来事は、22節以下の湖上の嵐から始まっていま す。イエスと一緒にいながら信仰がなかった弟子たち(25節)、救いを求める力も信じる力もなかったレギオンにつかれた人(26節以下)、そ して本箇所の「あなたの信仰があなたを直した」(48節)と言われた長血の女、「恐れないで、ただ信じなさい」(50節)と言われてよみが えったヤイロの娘。 長血の女とヤイロの娘の比較も興味深いものです。一方は、十二年間元気に過ごしてきて重い病気になって、死んでしまいます。一方は、十二年 間病気で苦しみ、治療で財産も使い果たし(マルコによる福音書5章26節の記述)、結局病気は治らず、人生のすべてを失ったとも言える若い女 性。対照的な十二年間ですが、いずれも、人間の力ではどうにもならず、両者ともイエスを信じることによって、奇蹟のみわざを受けました。 イエスがお与えになったみわざは、奇蹟でもありましたが、それは救いでもありました。48節は「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったので す」と訳せ、50節も「…そうすれば、娘は救われます」と訳せます。つまり、これらは、イエス・キリストの救いの現れとしての奇蹟だったので す。 イエス・キリストのみわざを受けさせるのは信仰です。問題や悩みを持ちながら過ごすのが人生ですが、イエス・キリストは、そこに必ず解決を 与えて下さいます。そしてそれは、救いの現れとしてのみわざなのです。 私たちも、信仰によって、主イエスのみわざを受けることができます。 それは、①イエスに望みをかける信仰、 ②イエスに保証される信仰、 ③イエスに与えられる信仰と言えるでしょう。 1.イエスに望みをかける信仰(43~44、48節) 十二年間長血をわずらい、誰にも治してもらえなかった女は、イエスの衣のふさにこっそりさわりました。衣のふさは、衣の一番下にあります。 女は、幾重にもイエスを取り巻く人々をかき分けて行き、這いつくばって足元の隙間から手を出したのです。 そのような女の行動を、主は「あなたの信仰」と言われます(48節)。それは、こっそりと、さわっても気付かれにくい衣のふさにさわったよ うな、わずかなイエスへの期待でした。それを、主イエスは信仰とお認め下さり、みわざを行われたのです。 「直した」は、先述のように、新約聖書では十中八九「救った」と訳されることばです。この癒しは、主イエスの救いが現れ出た奇蹟でした。人 生が回復され、主を信じていけば大丈夫、という人生を与えられたのです。 どれほどわずかでも、主イエスに望みをかける信仰を、主は信仰として受け入れて下さいます。大切なのは、信仰があるか、ないか、なのです。 2.イエスに保証される信仰(45~48節) 主イエスは、癒された女性を呼び出しました。レギオンにつかれた人がいたのを知っていて、弟子たちに湖に漕ぎ出すよう命じられたお方は、や はり誰がさわったか知っておられたのでしょう。 主は、病気が治る以上の解決を与えようとしておられました。それは、「あなたの信仰があなたを救った。これからは、わたしを信じていくなら ば、あなたの人生は平安だよ」という保証のみことばを与えるためでした。この女性は、このみことばをいただいたからこそ、信仰によって救われ たことを確信し、平安の中を歩んで行く人生に入っていけのです。 主イエスの保証に基づいた信仰は、たとえこの後再び試練に遭ったとしても、恵みを失うことなく、平安の中を歩ませたことでしょう。 私たちも、聖書のみことばで確信を得ることが大切です。神の保証のみことばがあれば、必ずみわざは起こります。 3.イエスに与えられる信仰(48、50~56節) 長血の女は、保証のみことばをいただいて、確実な信仰を持ちました(48節)。そして、ここでもイエスは「恐れないで、ただ信じなさい」と 言われます(50節)。 長血の女性に関わっている間に、会堂管理者ヤイロの娘は死んでしまいます(49節)。一刻を争う状況で、あえて主が時間をとったのは、この 長血の女のわずかな信仰が彼女の人生を変えたことを示し、「恐れないで、ただ信じなさい」と、ヤイロ夫妻に確かな信仰を与えるためでもありま した。 ヤイロ夫妻には、死んだ娘が生き返るという、より大きな信仰が求められました。だからこそ、長血の女の癒しと保証のみことばが必要だったの です。一人の信仰による救いは、新しい信仰を生み出します。 ここで注意したいのは、主は、ペテロとヨハネとヤコブ、そして両親しか中に入れなかったことです(51節)。イエスのことばをあざ笑うよう な、信仰のない偽りの同情者たちは、みわざを見ることができないのです(52、53節)。十字架と復活のイエス・キリスト信頼したいと思いま す。わずかな信仰であっても、彼に信頼する者は失望させられることがありません。 |