「主にゆだねられた務め」(宣教と養い)
  

      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 

 
  しかしイエスは、彼らに言われた。『あなたがたで、何
 か 食べるものを上げなさい。』」

     (ルカの福音書 9章13節a)




何か使命を持っているということは幸いです。「何もすることがない」、「何もできない」というのは、やはり辛いものでしょう。しかし、キリス ト者には、寝たきりの状態でも、祈る務めがあります。キリストの使命が与えられているのは、幸いなことです。
 ここには、弟子たちの派遣(1~6節)、その結果(7~9節)、五千人の給食(10~17節)が述べられています。ここに共通しているの は、弟子たちへの委託ということです。これまで主イエスとともに巡回していた弟子たちは、伝道に派遣され(2節)、五千人の給食においても 「あなたがたで、何か食べるものを上げなさい」と言われます(13節)。
 そこから弟子たちの信仰告白と十字架予告(18~27節)、変貌の山(28~36節)、山のふもとでの奇蹟(37~43a節)、十字架予告 (43b~45節)、弟子たちの議論など(46~50節)、そしてまっすぐ十字架に向かうイエス(51~56節)と続いていきます。
 使徒たちの派遣、「使徒」という語の使用(10節)、パンを配る委託などは、十字架・復活の先を見据えた動きだったのです。それは、今日の 使徒的教会の働きに通じるものです。イエスの直弟子である使徒はいなくなっても、その使命を引き継ぐ使徒的教会が今日あります。私たちにも、 委ねられた務めがあります。それが宣教と養いなのです。
 宣教・伝道は福音を伝えることでわかりやすいですが、五千人の給食に象徴される養いとは、今日的には、さまざまなケア、教育などによる牧会 にあたるのでしょう。
私たちも、ゆだねられている宣教と養いのわざを行うことができます。使徒たちがゆだねられた働きを、どのように果たしたかを見ながら、それを 探っていきたいと思います。
 それは、①ゆだねられた力と権威によりました。
     ②それは、ゆだねられたメッセージによりました。
     ③それはまた、主が祝福してゆだねられたパンによりました。
     ④そして、使徒たち自身への養いによりました。

1.ゆだねられた力と権威(1節)

使徒たちを派遣するにあたり、主は力と権威をお授けになりました(1節)。
 それは、悪霊を追い出し、病気を治すためでした。もちろんそれは、単に奇蹟の力ではありません。悪魔の支配から神の支配に移されたしるしと しての奇蹟です。つまり、神の支配へと人々を導き入れるための力と権威です。
 それには、彼らにゆだねられたメッセージが大きく関わっています。救いに導くためにこそ、私たちは、さまざまな働きをするのです。
 明治のキリスト教は、教育、医療、福祉など多くのものを日本にもたらしました。それは、神の愛を届け、福音を伝えるためでした。

2.ゆだねられたメッセージ(2、6節)

 すでに触れましたが、使徒たちには、ゆだねられたメッセージがありました。それは「神の国」(2節)であり、福音(6節)でした。
 神の国のメッセージとは、福音です。悪霊追い出しや癒しが意味するのは、神の支配、福音による救いでした。このメッセージ、神の国の福音こ そが伝道の本質です(マルコの福音書1章15節)。
 言うまでもなく、神の国、神のご支配は、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされます。十字架・復活こそ悪魔への勝利、罪の贖い です。キリストの贖いは、以下のように整理できます。罪と悪魔に対しては代価を払って人間を買い取り、神に向かっては、神の怒りと刑罰を代わ りに受けてなだめの供え物となられました。そこに神との和解が与えらます。
 苦しんでいる人たちに、私たちはさまざまな愛のわざを行います。それは、福音が伝えられてこそ完結するのです。

3.主が祝福してゆだねられた食物(16節)

 使徒たちは、主が祝福されたパンと魚を受け取って配りました。
 ここでは、ヨハネが述べるような五つのパンと二匹の魚を提供した子ども、マルコやマタイが述べる、食べ物をチェックしに行く弟子たちの動き などは一切触れられず、主が食物を祝福し、弟子たちがパンを配り、群衆が満腹したことが簡潔に述べられます。そこに強調点があるようです。
 弟子たちは、何もなしに人々を養えと命じられたのではありません。主が祝福された食物が彼らに渡されたのです。それらは、皆で分ければ分け るほど増え、皆が満腹しました。
 私たちは、主から神の愛をいただき、さまざまな能力や賜物をいただいています。タレントは、生来の能力とも言えますが、タラントのたとえ (マタイ二四14~30)では、主人からしもべにゆだねられたものです。生来の能力さえも、自分で獲得したのではなく、神様からのものです。 それらは、教会のため、人々のため、分ければ分けるほど祝福され、増やされるのです。

4.使徒たち自身への養い(17節)

 人々は食べて満腹しました。そして、使徒たちには、パンの破片が十二かご、一人一かごずつの食物が残されました。
 使徒たちは最後に食事しました。キリストのしもべは、いつも自分が最後です。しかし、それは一人で食べきれないほどの豊かな食事でした。新 改訳欄外注は、この原語は「大型のかご」を示唆すると言います。使徒たち自身も、養われる必要がありました。しかし、その豊かな養いが、他の 多くの人のために、さらに働き、分け与える力となるのです。
 分ければ分けるほど増える食物は、分けた人自身をも養うに余りあるものです。自分のためだけに生きるのは、何と寂しく、貧しい生き方でしょ うか。分け与える人生は他者に多くの祝福をもたらし、自分自身も満ち溢れるのです。愛すれば、ますます愛に満たされ、分け与えれば、ますます 喜びに溢れます。そしてそれが、さらに分け与え、人を養う働きの力となるのです。





 ホーム