「イエスの弟子の生き方」(信仰告白を生きる)
  

      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 

 

 イエスは、彼らに言われた。『では、あなたがたは、わ
 たしをだれだと言いますか。』ペテロが答えて言った。
 『神のキリストです。』」

      (ルカによる福音書 9章20節)




日本語をきちんと話せず、日本のこともあまり知らない人は、良い国際人になれないというのが私の持論です。アメリカに長く住んでわかったの は、アメリカ人が日本人である私に期待するのは、日本的なものであって、アメリカ的なものではないということです。キリスト者にも、同様のこ とが言えるでしょう。自分はキリスト者だと言う人に、世の人はキリスト者にふさわしい生き方、愛、誠実さなどを期待しているのではないでしょ うか。
 この箇所は、「大いなる告白」と言われるペテロの信仰告白を記します。ペテロは(弟子たちを代表して)、イエスをキリスト(メシア、救い 主)として告白しました。主イエスは、続いてご自身がどのような救い主かを教え、そのイエスを信じ告白する者がどう生きるべきかを教えます。
 主イエスは、弟子たちに問いました。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」(18節)。弟子たちは答えます。「バプテスマのヨハ ネ、エリヤ、昔の預言者のひとり…」(19節)。7~8節は、その伏線です。主は、さらに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問 われ、ペテロは「神のキリストです」と答えました(20節)。マルコ八29、マタイ一六16にも並行記事がありますが、原語では、ルカの記述 が最も簡潔です。
 「神のキリスト」とは、神に属する、神から遣わされた救い主というような意味でしょうが、神であるキリストとも取れます。
 この時点での弟子たちのキリスト観がどうであったかは不明です。当時の政治的メシアの考えは濃厚にあったと思われますが、曲がりなりにも救 い主だと信仰告白されたので、主は十字架・復活を予告されます(22節)。主イエスは、そのような救い主としておいでになったのです。
 ここには、マルコ・マタイが述べる、ペテロがイエスをいさめて、「下がれサタン」と叱られた出来事は略されます。ストレートに、十字架・復 活のイエスをキリストと告白する者の生き方を示すためでしょう。
 ここに述べられる、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、告白する者の生き方は、以下のようなものでしょう。
 ①自分の十字架を負って主について行く。
 ②永遠のいのちを全うする。
 ③キリストを恥としない。

1.自分の十字架を負ってついて行く(23節)

 信仰告白者の生き方は、第一に自分の十字架を負って主イエスについて行くことです。
 「十字架を負う」とは、特別な人が、特別な使命を負うことではありません。自分がつけられる十字架を負う、すなわち命がけでついて行くこと です。
 十字架はローマ帝国の最も残酷な死刑の道具でした。受刑者が負わされ、運ばされました。だから、主が語られた意味は、迫害され、殉教する覚 悟でついて来なさい、ということです。
 もちろんそれは、主イエスが人々の罪を負って十字架につけられるお方だったからです。このイエスについて行く者は、自分も十字架を負うので す。しかも、「日々」、つまり、一日一日思いを新たにしてついて行くのです。
 しかし、一人で行くのではありません。前を歩んでおられる主イエスの後ろから、ついて行くのです。
 今の日本では、命を奪われるような迫害はほとんどないでしょう。しかし、信仰ゆえの困難はいくらでもあります。しかし、主イエスが前を歩ん でおられます。聖霊によって、今も私たちとともに歩んで下さっています。

2.永遠のいのちを全うする(24、25節

 第二は、永遠のいのちを全うする生き方、すなわち、生涯主を信じ抜く生き方です。日々十字架を負う生き方は、いのちを全うする道なのです。
 24節は、逆説的表現です。肉体のいのちを救おうとして信仰を捨てる者は、永遠のいのちを失いますが、キリストのために肉体のいのちを失う 者は、永遠のいのちを持ち続けるということです。
 25節「全世界」とは、全世界の富、物質、権力等の意味です。永遠のいのちより大事なものはありません。それは、人間一人の価値の重さ、一 人の救いのすばらしさをも示しています。だからキリストは、一匹の迷える羊を探す羊飼いのように、一人を探すため地上に来られました。そし て、迷っている羊が見出されたら、天で御使いたちの間に大きな喜びがあるのです。
 十字架を負うことからわかるように、キリスト者として生きることは楽なことではありません。苦難の理由は、① 人間の罪②神の教育③苦難を通してきよくする神の愛などがありますが、それでも意味 がわからない苦しみがあります。しかし、御自身が苦しむ理由がなかったキリストが十字架で苦しんで下さり、私たちとともにいて下さいます。こ こに究極的解決があります。苦しくとも、永遠のいのちを全うしようではありませんか。

3.キリストを恥としない(26節)

 第三は、キリストとそのことばを恥としない生き方です。
 「わたしとそのことばと」とは、キリストとその福音のことばです。キリストとそのことばを「恥と思う」(エパイスクノマイ)とは、キリスト を恥じて人に告白しない生き方でしょう。パウロは、「私は福音を恥としない」(ローマ人への手紙1章16節)と、正反対のことを述べます。 「恥としない」とは、むしろキリストを誇り、キリストを告白し、証しし続ける生き方です。
 主を恥とする者を、主も恥とすると言われます。それは、ご自分の者として告白しないということです(↓マタイによる福音書10章32~33 節)。それは、地上に神の国が実現する最後の審判の時のことです。
 キリストを恥としない者への報いは、死を味わわないことです(27節)。死なないのではなく、肉体の死を通ってもなお死を味わわないので す。それは、私たちのためにキリストが死を味わって下さったからです(へブル人への手紙 2章9節)。
 誰でも、いつかは地上のいのちを終えます。永遠のいのち、永遠の希望を持って、死の向こうまで行けるのは、何と幸いなことでしょう。
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