「神の国へのカギ」(子どものような人)


      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理 牧師
 

 

  まことに、あなたがたに告げます。子どものように
 神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入る
 ことはできません。」 

        (ルカによる福音書18章17節)




1.主の弟子たちが子どもを叱った

イエスの立ちよる所に、人々は自然に集ってきた。イエスのいやしのわざや恵みに満ちたメッセージを聞きたい人や一目イエスを見たい人など。―  今日は、親たちが子どもをつれて、「イエスにさわっていただこうとして」(15)、幼子が大ぜい集っていた。子どもたちは泣いたり、わめい たり、わがままを言ったり、きっと騒がしい状態であり、休む間もないイエスをわずらわしてはならないと、弟子たちは勝手に考えていた。まし て、子どもへの理解やビジョンなどはなかったであろう。
人々は、メシアと期待されるイエスに按手して、祈ってもらえれば、(○参マタイによる福音書19章13~15節)、子どもたちが祝福される と、思ったにちがいない。
ところが主の弟子たちは、彼らを叱り、子どもたちを、イエスから遠ざけようとした。「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。 『子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」(16)
「神の国」とは、教会を含む、永遠のみ国、神が臨在する領域をさしていると言われる。
そのカギは「子どものように神の国を受け入れる者」だと言う。= つまり、「純真な信頼」、「完全な依存」、「素朴さ」、「開放性」、「道を示す」などである。
聖書中に「学者、パリサイ人」と言われる者がいた。聖書知識もあり、律法に熱心であっても、「イエスは主です」と受けとめる信仰も、純真さも なかった。(ルカによる福音書18章9~14節参照)
主の弟子のペテロはイエスと寝起きを共にした弟子で、指導的な存在であった。ある時、イエスから「あなたがたは、わたしをだれだと言います か。」(マタイによる福音書16章15節~)ときかれた時、はっきりと「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と、信仰告白している。こ の時、主は「この岩の上にわたしの教会を建てます。・・・天の御国のかぎを上げます。」(18、19)と、その恵みの特権に与っている。

2.幼子を呼び寄せて

幼子はよい側面だけでなく、やはり生まれながらの罪深さ(原罪)をすでにもっている。主イエスは「子どものような」と言う、柔らかで、純真 な、素朴で、信頼する心を神の国のカギと認めるが、そこで、イエスの十字架の身代わりの死は、私のためと受けとめる必要がある。まさに、「神 さま。こんな罪人をあわれんでください。」(ルカによる福音書18章13節)と卑り下って、砕かれて祈る必要がある。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51篇17節)
幸いなことに、子どもは聖なる神の光に照される時、素直に罪を認め、告白する時、なおのこと、十字架のもとに行かざるを得ない。その点で、子 どもは大人の模範なのである。
私自身が救いに与った時、苦しまぎれに、十字架を仰ぎ見つつ、あれこれ、思い出すかぎりの罪を告白して「イエス様の十字架の血に免じて、すべ てをお赦し下さい!」と祈った時、「こんな簡単なことでいいんですか?」と思わず、つぶやいたことを、忘れない。

2.少年のパンと魚が主の手に

テベリヤの湖の向こう岸へ、イエスが弟子と共に行かれた時、大ぜいの人が群がり、男の数だけで五千人(女性や子どもを入れると一万五千人はい たのではないか?)いた。
イエスは弟子のピリポを試して、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」(ヨハネによる福音書6章5節)と問われ、ピリポ は、「二百デナリのパンでは足りません。」と、計算を優先させ、信仰を働かせる余地はなかった。ところが、そばにいたアンデレが「ここに少年 が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(ヨハネによる福音書6章 9節)と、恐る恐る、少年の持参したお弁当(貧しい食事)をイエスのみ手におわたしした。半信半疑ながら、何か期待もまじる口ぶりである。
それにしても、この子の母親が用意したお弁当を、弟子のアンデレがどの様に説得したかわからないが、楽しみにしている昼食をよく手ばなして、 イエスのみ手に差し出したと感心する。まさに、この子の心の素直さ、やわらかさを見る。
イエスは人々をすわらせ、(食べ物を配るのにグループごとに)、先にパンを取り、次に小さい魚を「イエスは・・・感謝をささげてから、すわっ ている人々に分けてやられた。・・・ほしいだけ分けられた。」情景を目にした少年は、一生忘れない、「生ける神の子キリスト」を心に焼きつけ たであろう。驚くべきことに、「人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」と言うリッチな主の奇跡に感動する。
どんな時でも「子どものように神の国を受け入れる者」でありたいと思う。ヨハネは結論として、「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『ま ことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。」(ヨハネによる福音書6章13、14節)
●「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、・・・いのちを得るためである。」(ヨハネ による福音書20章31節)






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