「主イエスの人物評価」(偉い人、仲間、敵)


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 

 

 「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに
 受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また 
 、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受
 け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者
 が一番偉いのです。」

        (ルカによる福音書 9章48節)
 



社会では、外見で人の扱いが変わることがあります。スーツとネクタイを着けていると丁重に扱われ、普段着だと軽く扱われることもあります。
 ここには、誰が一番偉いかと言う議論(46~48節)、仲間でない者がイエスの御名によって悪霊を追い出していたこと(49~50節)、イ エスを拒否したサマリヤの町の人々(51~56節)の記事が続いています。
 51節から後は、主イエスのエルサレムに向かう旅が始まるので(19章半ばまで続く)、大きく区切られます。しかし、56節まで続いている テーマもあります。それは、世の人とは違う主イエスの人物評価や扱いです。
 大まかに言えば、最も小さい者が一番偉い、敵でない者は味方(仲間)、拒否する敵と思われる者でも報復せず、罰せず、赦す、ということで しょう。それらを最もよく代表していると思われるのが、48節です。
 イエス・キリストを信じる私たちは、可能な限り、主イエスの目をもって人々を見ていきたいものです。それでは、主イエスは、どのように人を 見られたのでしょうか。順を追って、小さい者、仲間でない者、拒否する者(敵のような者)と見ていきたいと思います。

1.小さい者(46~48節)

 まず、主イエスの一番小さい者が一番偉いという人の見方です。
 弟子たちの間で、誰が一番偉いかという議論が起こりました。マタイ、マルコにも並行記事はありますが、この位置で述べるのがルカの特徴で す。
 変貌の山に登ったペテロ、ヤコブ、ヨハネ以外の弟子たちは、悪霊を追い出せませんでした。そのようなところから、どの弟子が霊的な力がある か、というように発展した議論かもしれません。主イエスは、弟子たちの心の中を見抜いて子どもを連れて来られるので、弟子たちはひそかに議論 していたものと思われます(47節)。
 主イエスは、子どもを受け入れる者は主を受け入れ、主を受け入れる者は主をお遣わしになった父なる神を受け入れる者だと言われます(48 節)。だから、子どものように、一番小さい者が一番偉い、最も大切にされなければならない存在なのだと言われるのです。
 それは、主イエス御自身が、人々に仕え、人々の贖いのためにいのちを投げ出すしもべとして来られたことに理由があります(44節)。主は、 神に等しいお方でありながら人となって地に下り、しもべとなって、十字架に至るまで従い、仕えました(ピリピ二6~11、マルコ一〇45等参 照)。最も低くなられた方が、私たちの救い主なのです。だから、子どものように低い者、小さい者が一番大切にされるべき「偉い」人なのです。
 子どもは、親の願望をかなえるためのものではありません。教えたりしつけたりしながら、大切に育てるべき、神から委ねられた存在です。最も 取るに足りないと思われる人こそ、実は大切にされるべき人なのです。

2.仲間でない者(49~50節

 次に、仲間でない者をどう扱うかを見てみましょう。
 ヨハネが「答えて言った」というのは、やはりこの議論の流れで語られたことを物語ります。内輪の弟子たちの間で誰が偉いかは主の答が出たの で、仲間でない者たちはどうか、というように発展したものと思われます。
 弟子たちの仲間ではないのに、イエスの御名で悪霊を追い出していた人がいたのを、仲間でないからと止めさせた、とヨハネは言います(49 節)。「仲間でない」とは、原語では「私たちとともに歩まない」です。行動をともにしない人たち、ついて来ない人たちです。
 主のお答は、やめさせてはいけない、反対しない者は味方だというものでした(50節)。「反対しない」は敵対しない者(not against you)。「味方」は弟子たちのための者(for you)ということです。
 イエス・キリストがすべての人に仕え、救うために来られたのなら、同じグループであるかないかではなく、すべてのキリストを信じる者は仲間 なのです。教会の人数が増えると、必ずしも同じ行動をする人、同じ考え方をする人ばかりではなくなります。仲間、味方とは、同じキリストを信 じる者です。当然それは、他教会、他教派にも言えます。皆兄弟姉妹なのです。

3.拒否する敵と思われる人々(51~56節)

 ここでは、さらに進んで、敵と思われる、イエスを拒否する人々の扱いが語られます。
 主イエスは、エルサレムに行く意志を明確にされ、エルサレムへの旅を始められ(51節)、サマリヤの町に使いを出しました(52節)。宿泊 のためでしょう。しかし、エルサレムをめざすイエスを、サマリヤの人々は受け入れませんでした(53節)。
 サマリヤ人は、ユダヤ人と仲が悪かったのです。それには、ソロモン王の後に王国が南北に分裂したことに始まる、長い歴史的経緯があります。 やがて北王国はアッシリヤに滅ぼされ(前721年)、アッシリヤは他民族をサマリヤに植民、イスラエル人と他民族が混血しました。宗教的に も、サマリヤ五書、ゲリジム山での礼拝等、ユダヤ教から見ると異端でした。エルサレムの神殿の庭にサマリヤ人が乱入して、死人の骨をまき散ら して汚した事件もあり(6~9年頃)、エルサレムに対して強い敵意があったのです。
 ヤコブとヨハネは、エリヤのように、天からの火で彼らを焼き滅ぼそうと言います(54節)。しかし、イエスはそういうメシアではなく、サマ リヤ人をも救う、全世界の救い主です。ここにも、十字架の主のお姿が見えます。裁かずに救うために、エルサレムに向かっておられたのです。
 自分を低くし、すべての人のしもべとなり、いのちをお捨てになった主イエスの目を持って、人を見る者になりたいと思います。






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