「あなたを捜す救い主」(失われた羊のたとえ) KFG志木キ リスト教会 牧師 松木 充 牧師
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本日のテキストは、失われた羊を捜すたとえ話です。15 章には三つのたとえが語られます。失われた羊(3~7節)、失われた銀貨(8~10節)、放蕩息子(11~32節)。すべて、失われたものの 回復がテーマです。 1~2節は、これらのたとえ話が語られた状況を説明します。取税人、罪人たちがイエスの話を聞こうとしてイエスのところに来ます(1節)。それで、パリサイ人、律法学者た ちが、イエスが罪人たちを受け入れて一緒に食事をする(交わりをする)ことを批判しました(2節)。そこで、主イエスがこれらの三つのたとえ 話を語られました。つまり、三つのたとえ話の失われた羊、失われた銀貨、失われた息子は、罪人を示しています。 罪人は失われた存在です。「罪」とは、新約聖書でも旧約聖書でも、的を外すという意味があります。「失われた」という語も、「滅びている」という意味があります。放蕩息子 が「死んでいたのが生き返り」という表現が、それを物語っています(24、32節)。 失われ方は、三者三様です。羊は迷い出て、銀貨は事故のように転がり出て、放蕩息子は自分の意志で離れて行きました。罪人は、造り主である神から離れています。離れ方は 違っても、同じく失われています。特に、「失われた羊」、「失われた銀貨」のたとえでは、捜すことがテーマです。主イエスは、私たちを捜し出 して救うために地上に来られたのです(19章10節)。 救い主は、私たちを捜しておられます。ここには、捜すことについて、いくつかの要素が示されています。救い主イエスは、どのように私たちを捜して救うのでしょうか。 それは、①罪人を受け入れて救う、 ②罪人を見つけるまで捜して救う 、③罪人の悔い改めを喜んで救う、ということです。 1.罪人を受け入れて救う(2節) 救い主イエスは、罪人を受け入れてお救いになります。 イエスが罪人を受け入れたことは、パリサイ人律法学者の批判の中で語られています。反対者も認めていたことでした。 「受け入れる」(プロスデコマイ)とは、歓迎することです(ローマ人への手紙16章2節、ピリピ人への手紙2章29節)。主イエスは、彼らを喜んで受け入れたのです。 「取税人、罪人」たちは、パリサイ人たちが考えた最も典型的な罪深い人たちでした。異邦人支配者のために神の民イスラエルから税を取る人々、 律法をきちんと守らない人々。しかし、喜んでイエスを信じ、従ったのは彼らでした。主イエスも、彼らを歓迎したのです。「一緒に食事をする」 とは、同じいのちにあずかる親しい交わりを意味します。主イエスが罪人を捜して救うとは、罪人を歓迎して受け入れて下さるからなのです。 2.罪人を見つけるまで捜して救う(4節) イエス・キリストは、罪人を見つけるまで捜して救います。 失われた羊のたとえの中心は、百匹のうちいなくなった一匹を羊飼いが捜すことです。ただ捜すのではありません。見つけるまで捜し歩くのです。 「九十九匹を野原に残して」の「野原」(エレーモス)は、荒野です。しかし、九十九匹より一匹が大事と読んではならないでしょう。何より、こ れはたとえ話です。さらには、一匹はイエスを求める罪人たち(取税人、罪人たち、1節)を暗示し、九十九匹は自分が正しいと思ってイエスを批 判するパリサイ人、律法学者たちを暗示します。自分が正しいと思う人たちは、いくら働きかけても批判するだけです。そういう人たちを置いてお いてでも、自分が罪人だと知って主を求める人々を、まず救うということです。 「捜し歩く」は意訳で、原語は「行く」ということばです。それは、捜しに行く、見つけるまで捜す(行く)、という文脈からの意訳です。 神の御子イエスは、罪人を捜すために、人となって地上に来られました。九十九匹を置いてでも一匹を捜すたとえは、仮にあなたが地上で唯一の罪人であっても、イエス・キリス トは十字架でその罪を負うために来られたということです。もちろんそれは「仮に」です。人間はすべて罪人です。 様々ないきさつで、人は教会に来ます。それは実は、キリストが、ご自分を信じる者を通して、今もあなたを捜し続けているからなのです。 3.罪人の悔い改めを喜んで救う(5~7節) イエス・キリストは、罪人の悔い改めを喜んで受け入れて救います。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい 人にまさる喜びが天にある」と言われます。「悔い改める」(メタノエオー)、「悔い改め」(メタノイア)は、心を変えるという意味です。それ に当たる旧約聖書ヘブライ語「シューブ」は向きを変えて帰ってくることです。自分の罪を悟り(知)、罪を悔いて心を変え(情)、向きを変えて 神のもとに帰ること(意)が悔い改めと言えるでしょう。「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」と言われますが、実際には神の前に皆罪人 で、そのような人はいません。自分が正しいと思ってイエスを批判するパリサイ人、律法学者たちを暗に示して戒めることばです。宗教的指導者た ちは、イエスを十字架につけました。本来なら真っ先に罪を認め、悔い改めるべき人々でした。しかし、世の人に罪深いとさげすまれていた人々が 真っ先にイエスのもとに来ました。主イエスは、彼らのゆえに、天で喜びがあると言われます。神が喜ばれ、御使いたちも喜ぶのです。 |
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