2019年新年聖会

「御国をもたらす神の民」

KFG 志木キ リスト教会  特別講師 西岡 義行 牧師
 
 

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのもの
 だからです。」

        (マタイによる福音書 5章3節)




 今日の聖書箇所は、八つの「幸い」が出てきます。最初 (3節)と最後(10節)は、「天の御国はその人のものだからです」と締めくくられます。

1.謎としての幸い

 ここで語られる「幸い」とは、謎の多いものです。幸いとは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。「これが幸い」と確かに言えるのでしょう か。
 和田勉さんという方のコラムで、幸せそうな表情をしてみろと俳優たちに言うと、皆自慢そうな顔をしてしまう、という文章を読んだことがあり ます。
 ここで「心の貧しい者は幸い」と言われ、ますます謎が深まります。「貧しい」には、ペネースというギリシャ語もあります。働かなければなら ない程度の貧しさです。ここで用いられるギリシャ語「プトーコス」は、どうにもならない極貧です。絶望の淵にある状態です。しかも、心すら貧 しい、それが「幸い」と言われます。
 「悲しむ者は幸い」とも言われます。最大の悲しみを表現するギリシャ語が使われています。最も大切な者を失った悲しみです。どうしようもな く悲しんでいる方に、慰めのことばをかけました。それがかえって傷付けることになりました。慰めをも拒絶する悲しみがあるのです。
 「柔和な者」は、相手に合わせるような意味ですが、社会的に搾取され、抵抗すらできず、奴隷のような、従順にさせられている人です。酒を飲 んで暴力を振るう父親に、無理やりに従順にさせられている家族もいます。なぜそんな人たちが幸いなのでしょうか。
 「義に飢え渇いている者」とも言われます。「義を叫ぶ」という意味があります。「正義はどこにあるのか」と叫ばざるを得ない人です。
 幸いとは、ますます謎です。

2.約束としての幸い

 聖書を読んでいくと、これは神様の約束であることがわかります。
 ここでの「幸い」は、ハッピー(happy  happen=「偶然起こる」が語源)ではなく、ブレッセド(blessed=祝福されている)です。
 「幸せ」=「仕合わせ」は、ひとつ歯車が壊れると、すべて壊れてしまいます。この幸いは、神の祝福です。絶望の中にある人を祝福するとい う、神の約束です。その人に祝福を、御国をもたらすという神の宣言なのです。
 このイエス様の宣言は、単なる思い付きではありません。背後にはイザヤ書61章1~3節があると言われます。その実現こそが山上の説教なの です。さらに、山上の説教の前、イエス様が油注ぎを受けて公生涯に向かわれるときのことを、四14~17がイザヤ書の成就だと語ります。八つ の祝福は約束で
す。預言の成就なのです。
 そして、これは単なる口約束ではありません。山を下りたイエス様は、八章から九章で、「幸い」と宣言したことを、次々に実行されます。ツァ ラアトに(らい病)冒された人、中風の人、悪霊につかれて暴れている人、十二年長血の女性、娘を亡くして悲しんでいる人たちに、癒しを、解決 を、祝福を与えられたのです。

3.祝福をもたらす民

  この八つの祝福は、初めの四つは受け身、後半の四つは能動的と言えます。祝福をもたらす者は幸い、ということです。
 「あわれみ深い者は幸い」等々は、弟子たちへのメッセージでもありました。パリサイ派は、あわれみを失っていました(九13)。罪深い人た ちを、絶望の淵にある人たちを、ただ裁くだけでは、神の国をもたらすことはできないと弟子たちに語られたのです。
 「心のきよい者は幸い」と言われます。混じりけがないという意味です。水は必要不可欠なものですが、当時のイスラエルでは危険なものでもあ りました。汚れていると、腐敗して最も危険な飲み物になります。主に仕えているのか、自己達成のために自分に仕えているのか、問い直す必要が あります。主のみに仕え、二心でなく、聖別される必要があります。それは、前半に語られた絶望の中にある人々に、神の国をもたらすためです。
 「平和をつくる」ことは、唯一、イエス様だけができることです。インマヌエルの主を受け入れなければ、後半四つは無理です。このイエス様に よってこそ、あわれみ深く、心がきよく、平和をつくり、義のために迫害されることができます。イエス様こそ、十字架に至るまでそのようなお方 でした。私たちも、そのように御国をもたらすために召されているのです。
 私たちは、自分の幸せを追求します。しかし、何が幸せかわかりません。死んだらどこに行くのか知りません。幸せになる道を知りません。自分 を責め、他人を責め、神のもとに戻るまで幸せは得られません。それを誰よりも知っているのは、絶望の淵にある人です。
 そのような人に幸いを宣言し、御国の幸いをもたらすために自分をささげないかと、イエス様は招いておられます。
 私たちの教会でも行っている「癌哲学外来」(癌カフェ)に来たある婦人も、絶望の淵にありました。夫を直腸癌で失い、自分も卵巣癌になりま した。新座志木のカフェでテレビに取材され、自分だけが不幸だと思っている姿を見ました。やがて私たちの教会のカフェに来るようになりまし た。このカフェを立ち上げた人は、自身癌再発の恐れを持ちながら、そういう人に福音を伝えたいと願っていました。彼女は、その秘密が聖書であ ることを知りました。そして、彼女もみことばの光に照らされて、再入院・手術の前に受洗しました。そしてステージ四になったのに、平安でよく 眠れたのです。緩和ケアでも、喜びに満たされていました。子どもたちに福音を伝え、葬儀に来た看護師は、彼女にいつも慰められたと泣き崩れま した。私たちも、御国をもたらす者とさせていただきましょう。(文責 松木)






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