「神の国の宣教」(収穫のために)
KFG
志木キ リスト教会 主任牧師 松木 充 牧師
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新年聖会では、西岡師のメッセージを通して多くの恵みをいただきました。宣教的なメッセージでしたが、聖化の恵みは、兄弟姉妹への愛、救い の恵みを知らない人々への愛、彼らに対する証しとなって結実すべきものです。 四国に、「燃える心の婦人牧師」と呼ばれた青野雪江師がおられました。個人伝道に力を注ぎ、ある年には200人ほども救いに導きました。彼 女に導かれたのが松木祐三師(八王子教会牧師、日本ホーリネス教団委員長)。そして、八王子教会で救われ、献身されたのが西岡義行師です。宣 教学の研究者として教鞭を取る西岡師ですが、一人一人に福音を手渡す個人伝道の流れが脈々と受け継がれていることに感動を覚えました。 ここで記されるのは、七十人の派遣です(20節まで続く)。二人ずつ遣わされました(1節)。十二使徒だけでなく、七十人が遣わされるの は、皆が福音を伝えるべき者であることを示しています。 派遣にあたり、主は弟子たちに心得を教えました(2~12節)。続いて、悔い改めなかった町々への裁き(13~16節)、帰ってきた弟子た ちへの勝利の宣言(17~20節)と続いていきます。 七十人の派遣はルカだけの記述です。マタイによる福音書10章の十二弟子の派遣は、ルカでは九章1~6節に記されます。七十人は、創世記 10章のノアの息子たち、ヤペテ、ハムから出た異邦民族が七十あるのに対応し、将来の異邦人伝道を先取りした派遣と見る者もいます。もちろ ん、七十人が遣わされた町々は、十字架途上の主イエスが訪問しようとしていた町々です。 主は、「実りは多いが、働き手が少ない」と言われました。七十人でも少ないのです。なお、「実り」(テリスモス)は「収穫」と同じ原語で す。収穫が多いことは保証されています。だから彼らは、自分自身送り出されながら、もっと働き手を送って下さいと祈るべきなのです。 多くの人を主イエスに導く秘訣は、より多くの働き手です。収穫は多いのに、収穫する人が足りないのです。一人でも多くの働き手がいれば、よ り多く収穫することができます。 なお、ここに見られるのは緊急性です(4、10~11節)。十字架を前にしたエルサレムへの途上で、復活・昇天後の伝道を見据えた訓練だっ たからでしょう(九51)。今日は、伝道の緊急性を心に留めながら、送り出される働き手がどのように働けばよいのかを、3~12節を中心に学 びたいと思います。収穫は多いのですから、私たちも収穫することができます。 それは ①収穫のために祈る、 ②受け入れる人とともに収穫する、 ③神の国を伝える 、④確信をもって伝えることによってです。 1.収穫のために祈る(2、5~6節) 第一の心得は、収穫のために祈ることです。主は、収穫の働き手を送り出して下さるように祈るよう命じられました(2節)。それは、遣わされ て行く備え祈りでもあり、さらに協力者を得るための祈りでもあります。 はいった家でも平安を祈ることが命じられます(5~6節)。この祈りは、メシヤの平安・平和(イザヤ書11章6~9節)を祈る祈りでしょ う。主を受け入れるとその人のものとなり、受け入れなければ伝道者に帰ってくるのです。 神学校で、個人伝道を尾花晃師から学びました。その人とともに祈るように教えられました。祈ると聖霊が働くからです。そして、聖霊によって のみ主イエスを信じ、告白することができるからです。 2.受け入れる人とともに収穫(7、8節、参考4節) 第二は、受け入れてくれた人(家)とともに働くことです。派遣された者は、家から家へと渡り歩くことを戒められています(7節)。 ひとつには、もてなしを受けることは、働き人が得る当然の報酬だからでしょう。それはまた、伝道の拠点をしっかりと定める意味もあったので しょう。しかし、それだけではなく、受け入れてくれる家の人たちとともに歩むことでもあったと思われます。福音を伝え、人々を救いに導く特権 を、伝道者を受け入れ、支えてくれる家の人たちと共有することなのでしょう。 聖会で伊奈シャロームチャペルの兄姉にお会いし、家庭集会から伊奈の伝道が始まったことを思い起しました。主が言われた通りに、福音が入っ た家庭から主を信じる群れが起こされていきました。 3.神の国を伝える(9節) 第三は、伝えるべきメッセージです。病人をいやし、「神の国があなたがたに近づいた」と言うように、主はお命じになります(9節)。 いやしは、悪魔、悪霊の支配から神の支配に移ったことの現れです。悪霊追い出しも同様です。だから、ことばにせよ、行動にせよ、伝えるのは 神の国なのです。神の国とは、神のご支配、罪と悪魔と滅びからの解放です。神の国は、イエス・キリストを救い主と信じて、罪赦され、神の子と され、永遠のいのちをいただいて入るのです。 4.確信をもって伝える(10~12、16節) 第四には、確信をもって伝えることです。 う水も与えられなかった(もてなされなかった)ことへの抗議と思われます。また、もはやその町には責任がない、関わりがないことの表明でしょ う。福音を信じれば必ず救われるという、福音の使節としての確信の現れです。 福音を受け入れなかった町は、罪深さのゆえに神に滅ぼされたソドムよりも罪深いと言われます(12節、創世記19章参照)。続く主の裁きの ことば(13~15節)もそれを裏付けます。それは、救い主イエス御自身が地上においでになったのに、依然として悔い改めないからでしょう。 福音の使節を拒むのは、主イエス御自身を拒むことです(16節)。確かな救いをもたらす福音の使節として、確信をもって伝えたいものです。 |
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