「隣人愛の実践」(善きサマリヤ人)
KFG
志木キ リスト教会 主任牧師 松木 充 牧師
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神を愛すること、隣人を愛することは最も大事な戒めです。特にこの主イエスと律法の専門家の対話では、隣人を愛する方に重心があります。キ リスト者らしい生き方とは、隣人を愛することです。そして、主が言われる隣人とは、出会うすべての人ではないでしょうか。 ここで立ち上がっ て主イエスに質問した「律法の専門家」(ノミコス)とは律法学者のことですが、一般の法律学者にも用いられ、異邦人に向けて書いたルカらしい 用語です(七章30節30、10章25節、11章45節、46、52、14章3査閲7章、14章3節)。 律法の専門家の問は、「何をしたら 永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(25節)。それに対して主は、律法に何と書いてあるかと問い返します(26 節)。律法の専門家は、申命記六5、レビ記一九18を示します。この二箇所を律法の中心とする教えは、当時のユダヤ教にはありません。主イエ スの教えをどこかで聞いていたのでしょうか。 ここでの律法の専門家の問は、金持ちの役人(富める青年)の問「尊い先生、私は何をしたら、永 遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(ルカによる福音書18章18節)に酷似しています。主は、その役人に十戒を示 し、持ち物を売り払って貧しい人に施し、天に宝を積み、ついて来るように命じます。それは隣人愛の実践でもあります。 主の律法の専門家への 答は、「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」というものでした(28節)。そして、善きサマリヤ人のたとえの 結論も、「あなたも行って同じようにしなさい」(37b節)。 これは、一見行為義認のように思われます。しかし、彼は自分の正しさを示そう として、「私の隣人とは、だれのことですか」と問います(29節)。その答が善きサマリヤ人のたとえです。主は、彼が正しくない(罪人であ る)ことを示すためにたとえを話し、実行するように言われたのです。 これらのことから、本当の隣人愛について学びます。 主イエスが教えられる 1.実践されるべき隣人愛(28、37節) 本当の隣人愛は、高邁な思想哲学ではなく、実践されるべきものです。 主イエスは、それを実行すればいのちを得ると言われ(28節)、善き サマリヤ人のたとえを、「あなたも行って同じようにしなさい」と結びます(37節)。実行されてこそ隣人を愛したと言えるのです。 「子ども たちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハの手紙第一ネ3章18節三 18) 女性は、宝飾品や美しいドレスが好きです。母の日のプレゼントがピザカッターという話も聞きました。もちろんキリスト者は無駄な贅沢 はしませんが、相手が喜ぶ物を贈る行動や、ことばになって現れるのが愛です。 主イエスが教えられる「隣人を愛する」こととは、 ①実践されるべきもの、 ②敵をも愛する愛、 ③正しい者だけが実践できる愛、と言えるでしょう。 2.敵をも愛する愛(30~37a節) 本当の隣人愛とは、敵をも愛する愛です。 善きサマリヤ人のたとえは、律法の専門家が「私の隣人とは、だれのことですか」(29節)という問 いを受けて語られました。 エリコは祭司、レビ人が多く住む町でした。余談ながら、ザアカイ(一九1以下)もエリコの人でした。さぞ嫌われた ことでしょう。 祭司もレビ人も、襲われた旅人を助けようとはせず、むしろ関わりになることを嫌いました。祭司、レビ人と出てきて、聞いてい た律法の専門家は、いよいよ律法学者・パリサイ人の出番だと思ったかもしれません。しかし、意表を衝くように、主イエスはサマリヤ人を登場さ せます。 サマリヤ人は、前七二一年以降、アッシリアの植民政策で移住してきた異邦人がイスラエルと混血した民族です。捕囚から解放されたイ スラエルの再建をしばしば妨げました。近くは六~九年頃、過ぎ越しの祭の期間に夜中に神殿に乱入、人骨をまき散らして神殿を汚しました。その サマリヤ人が、倒れたユダヤ人の旅人を隣人として愛したのです。もちろん、これはたとえ話ですが、何か下敷きになる出来事があったのかもしれ ません。 律法学者・パリサイ人は、敵を愛さなくてもよいと考えたようです。しかし、父なる神の愛を受けたキリスト者は、敵をも愛することが 求められています(マタイ五43以下)。 3.正しい者だけが実践できる愛(25、29、37節) 本当の隣人愛は、正しい者だけが実行できます。 律法の専門家は、自分の正しさを示そうとして「私の隣人とは、だれのことですか」と問いま す(29節)。そこで語られるのが善きサマリヤ人のたとえでした。これは論争とも言うべき対話です。 律法の専門家が示そうとした正しさと は、愛すべき者は愛している、愛さなくてよい者もいる、という考えと思われます(マタイの福音書5章43節)。しかし、主の目から見た正しさ とは、敵をも愛する愛です。 この律法の専門家は、元々主イエスを試そうとして質問しました(25節)。そして、自分は正しいと思っていまし た(29節)。そこで主は、その「正しさ」を打ち砕くために善きサマリヤ人のたとえを語り、「実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」 (28節)、「あなたも行って同じようにしなさい」(37節)と語られたのです。彼は、本当の隣人愛を実行できていません。「実行すればいの ちを得る」というのは彼への皮肉か、実行できていないことを悟らせるために、「行って同じようにしなさい」と言われたのでしょう。 このたと えが実話だったとしたら、助けられたユダヤ人は、善きサマリヤ人を愛するようになったことでしょう。主イエス御自身が、善きサマリヤ人のよう に敵をも赦し、愛し、自分を殺す人々の罪を負って十字架で死なれました。その愛と赦しを受けた者だけが、善きサマリヤ人のごとく隣人を愛する 者に変えられるのではないでしょうか。 |
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