「ただ一つ必要なもの」(みことばに聴く)
KFG
志木キ リスト教会 主任牧師 松木 充 牧師
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神がお語りになり、私たちがそれを聴けるというのは、どんな奇跡にもまさる奇跡と言えるでしょう。ある人は、一日に一度、わずかな時間でも神 のことばを聴き、生ける神に出会うなら、その人は変わると言いました。 ここで主イエスが入って行かれた「ある村」(38節)は、マルタとマリヤとラザロが住んでいたベタニヤです(ヨハネによる福音書11章1 節、12章1節)。ルカがあえて「ある村」とするのは、ここに書かれているような出来事は、どこででも、いつでも起こり得ることだということ を物語ります。 善きサマリヤ人のたとえの流れから読むと、善きサマリヤ人のたとえが隣人を愛する教えであり、本箇所は神を愛することを示すエピソードとし て読むことができるでしょう。 マルタは、主イエスを喜んで迎えました(38節)。妹のマリヤはみことばに聞き入っていました(39節)。「みことば」(ロゴス)は、世間 話ではなく、論理的なことば、ひとまとまりの教え、すなわち説教です。「聞き入っていた」は継続した動作で、五分や十分ではなく、マルタがい ら立ってねじ込んで来るのに十分な時間だったでしょう。 特にここでルカはイエスを「主」と呼び(39、41節)、マリヤがイエスを主と仰いで、そのみことばに聞き入っていたことを示します。マル タも「主よ」と言いますが(40節)、それは「先生」というほどの意味でしょうか。 マルタは、もてなしのために心を砕いて落ち着かず、妹に手伝うように言ってほしいと、イエスにいら立ちをぶつけます(40節)。それへの主 の答が42節。みことばを聴くことは、最優先のことなのです。 みことばを聴く方法は、聖書を読む、聖書の解説を読んだり聴いたりする、説教を聴くこと、覚えているみことばから語られる、などがありま す。 私たちは、何を置いても主のみことばを聴くべきです。それは、他のことに気を取られては心が分裂するからであり、みことばに聴くことが何よ り良いことだからであり、みことばは永遠に取り除かれないからです。 1.心が分裂する(40~41節) まず主のみことばを聴くべきであるのは、他のことに気を取られては心が分裂するからです。 マルタのいら立ちは、40節のことばによく現れていますが、それを主イエスは「心配して、気を使っている」と言われます(41節)。 「心配する」(メリムナオー)は、思いが分割されていることです。それは、マタイによる福音書6章25節31節、34節などで、主イエスが 「心配してはいけません」と言われるのと同じ語です。食べる物、飲む物、着る物等のこの世の必要と、第一に求めるべき神の国との間で、心が分 裂しているのです。 マルタは、主をもてなすことに熱心なあまり、マリヤが主のみことばに聞き入ることさえ、ただ何もしていないように思えて腹立たしかったので す。主の弟子は、何より主の教えを聴く者であるべきです。マルタは、主をもてなすことに心を奪われ、心が分裂していました。 もちろんマルタは主を愛していました。だから熱心にもてなそうとしました。主はそれをご存知だったからこそ、「マルタ、マルタ」と二度も呼 びかけて、優しく諭されるのです。 キリスト者にも多くの奉仕があります。しかし、それに心を奪われて忙しく動き回るばかりになり、最も大事な主のみことばを聴くことがおろそ かになってはいけません。みことばで整えられてこそ奉仕ができるのです。 2.何より良いこと(42節) まず主のみことばを聴くことは、何より良いことです。 「マリヤはその良いほうを選んだのです」と主は言われます。「良い(ほう)」(アガトス)とは、他のものと比べて良いことを意味します。そ れは、「すべてをともに働かせて益とする」(ローマ人への手紙8章28節)の「益」と同じ語で、損得の益ではなく、最善のことです。 ここで比べられているのは、さまざまなごちそうでしょうか。もてなしでしょうか。しかし、みことばに聴くことが、より良いということです。 旅人をもてなすことは、最も代表的な隣人愛の現れです(ローマ人への手紙12章13節)。しかし、その前に必要なことがあります。隣人を愛 し、奉仕するためにこそ、マリヤのようにみことばに専心して聴くことが必要です。 みことばを聴くことは、神、主イエスとの交わりです。だから何より良い、欠かせないことなのです。隣人愛は、神への愛に先立ちません。もち ろん、これらは別々のことではありません。だからこそ、神を愛し、そのみことばをまず聴くことから、隣人愛も奉仕も始まっていくのです。 3.永遠に取り除かれない(42節) 主のみことばは、取り上げられないものです。 「彼女からそれを取り上げてはいけません」は、「取り上げられる(取り除かれる)ことはありません」という未来形です(新改訳2017)。 未来形は、命令に用いられることもあります(マタイによる福音書5章21、27、33、437節等)。十戒のような旧約聖書ヘブライ語の影響 でしょう。しかし、ルカの他の箇所と比較すると、ここは単純に未来とするのが良さそうです。 この主の一言は、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイによる福音書24章35節)とい うみことばを想起させます。主が語られるみことばは、決して取り去られるようなものではありません。永遠の力、永遠の価値がある、永遠に有効 なみことばです。 私たちに語られる約束のみことばも永遠です。志木教会の開拓で久保師に与えられたみことば、「だれも閉じることのできない門を、あなたの前 に開いておいた」(黙示録3章8節)も変わりません。私たちに語られた救いのみことばも、導きのみことばも、永遠に変わりません。 |
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