「世の光キリスト」 KFG志木キ リスト教会 主任牧師 松木 充 牧師
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今日のメッセージにサブタイトルを付けるなら、「イエス・キリストの自己紹介」とでも言えるでしょう。 イエス・キリストは、「わたしは~である」と、ヨハネ福音書で七回言われました。 それは、 ①「いのちのパン」(六35)、 ②「世の光」(八12)、 ③「羊の門」(一〇7、9)、 ④「良い牧者」(一〇11)、 ⑤「よみがえり・いのち」(一一25)、 ⑥「道、真理、いのち」(一四6)、 ⑦「まことのぶどうの木」(一五1)です。 これらは、重なり合うところもありますが、イエス・キリストがどんなお方であるかを、さまざまな角度から示しています。 「わたしは~である」(エゴー・エイミ)という表現は、旧約聖書の神御自身が語る形式のギリシャ語訳と言われ、イエスが神に等しい神の御子 として御自身を現したことばと言われます。 今日は、「わたしは世の光である」ということばから、イエス・キリストがどんなお方かを探ります。もちろん、イエス・キリストについて知っ て、なるほどと感心して終わるのではなく、信じましょうというお話です。 それは、①イエス・キリストは「世」の光、 ②イエス・キリストは、導きの光、 ③イエス・キリストは、いのちの光だからです。 1.「世」の光 イエス・キリストは、「世」の光です。 「世」は、「世代」「世相」「世論」など、人間社会の事相、世相を表す語感があります。聖書での「世」(コスモス)は、「世界」という広が りを持つ意味もありますが、特にヨハネの福音書では、「神に敵対する勢力に支配された世界」「神を知らない人間社会」という意味合いが特徴的 です。 イエス・キリストがそのような「世」の光であるというのは、そこに光を当て、神を知らせ、人間が罪人であり、神から離れた存在であることを 知らせ、その「世」に対する神の愛を知らせる光ということです。 神は、ご自分に敵対する世を愛されました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人とし て滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(三16)。 本日の箇所の直前、七53~八11は〔 〕に入れられています。最古の信頼できる写本にはない箇所ですが、ここに置かれていることには意義があります。イエス・キリストは、人の罪深さ、神に帰る必要性を知らせる お方です。年長者(長老)から去って行ったのは、 歳を重ねるほど罪も重なり、罪人であることをよくわかっていたからでしょうか。 人間の尊厳、基本的人権、殺人、盗み、偽証、姦淫などが罪であること、家庭の大切さ、教育の大切さ、愛の必要性等々は、聖書から来ていま す。神が人間に良心を与え、イエス・キリストが聖書を通して神のみこころを示した影響は大きいのです。イエス・キリストは、人の罪、そこから 救う神の必要性を知らせる、世を照らす光なのです。 2.導きの光 イエス・キリストは、人生を導く光です。主イエスは行く道を照らし、世の光イエスに従う者はやみの中を歩まないのです。 「決してやみの中を歩むことがなく」と言われます。ヨハネ福音書では、やみは、神に敵対する勢力(悪魔)です。人を神に敵対させ、罪を犯さ せ、滅びへと向かわせる力です。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ一4~5) 「決して」は強い否定表現です。このお方について行けば、、どこに行くのかわからない、滅びの危険をはらんだ道を進むことは絶対にないので す。死の瞬間にも、神のみもとに召されることを知っているのです。 「わたしに従う者は」と言われる。「従う」(アコルーテオー)とは、イエス・キリストについて行くことです。聖書のみことばを頼りに、イエ ス様のあとからついて行くことなのです。 もちろん、人生に何が起こるか誰も知りません。試練もあるかもしれません。しかし、みことばを頼りに、みことばに励まされてイエス様につい て行くなら、決して罪と永遠の滅びに至る道を歩むことはないのです。 3.いのちの光 イエス・キリストは、いのちの光を持たせて下さるお方です。 それは、危険なやみの中を歩まないことの裏返しであり、永遠のいのちに至る道を安全に歩ませて下さることです。 また、光はやみを歩ませず、いのちへと導くとともに、光そのものがいのちでもあります。人間も、動植物の生命活動も、光によって支えられて います。太陽の光が地球を暖め、生命活動を支えているように、イエス・キリストは、いのちを与える光です。信じる者の心に住み、ともに歩み、 聖書からみことばを語り、慰め励まし、生きる力を与えるいのちの源なのです。 イエス・キリストは、私たちの罪を負って十字架で死なれました。私たちは、皆罪人で、本来滅びるべき者です。しかし、キリストがその罪の刑 罰を代わって受けて死んで下さり、復活されました。「わたしはよみがえりです。いのちです」(先述、ヨハネによる福音書11章25節)。その ような神の愛が私たちを生かし、死の向こうまで持って行けるいのちを与え続けます。 テキサスで受洗、帰国されたご婦人がいました。帰国早々、隣家の夫人に「お宅の息子(三歳)が石を投げて車を傷つけた」と怒鳴り込まれまし た。彼女の憶測にすぎず、納得できないまま数万円の修理代を払いました。その後も庭に出るだけで怒鳴られましたが、礼を尽くし続けました。十 五年が過ぎ、隣家夫人は離婚、引っ越し。挨拶に来られ、「近所であなただけが優しくしてくれた」と泣きながらお礼を言ったそうです。悔しくて も、納得できなくても、ただキリストについて行った結果でした。 |
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