「祈りを教えてください」(主の祈り) KFG志木キ リスト教会 主任牧師 松木 充 牧師
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主イエスの弟子たちは、「祈りを教えてください」と願いました。 バプテスマのヨハネも、弟子たちに祈りを教えたようです。祈りは、そのグループの信仰の特徴を示すものでした。主イエスが教えた主の祈り も、イエス・キリストを信じる者の信仰を顕著に示しています。それは、決して決まりきったお題目ではなく、本当に祈るべきことを示していま す。 ルカ版主の祈りは、マタイ六9~13よりも簡潔です。主が最初に教えた形をルカは反映し、次第に形が整ったのでしょうか。教会教育のため に、マタイは整った形の祈りを記したのでしょう。今日はルカに沿って学びます。 祈ることは、しばしば信者にも難しいことかもしれません。どこで祈れば良いのか。いつ祈れば良いのか。何を祈ったらよいのか。「忙しいか ら、もっと祈らなければいけない」とルターは言いました。 何を祈ればよいのかを教えるのが、主の祈りです。 それは、①父への祈り、 ②神の御名のための祈り、 ③御国を求める祈り、 ④日々の必要のための祈り、 ⑤罪の赦しを求める祈り、 ⑥試みに会わない祈りです。 1.父への祈り(2b節) まず、「父よ」と呼びかけます。「天にいますわれらの父よ」と言うマタイ版より簡潔です。 神を個人の「父」と呼ぶのは、主イエス以前には例がありません。神を父と呼ぶ主イエスに救われた者は神の子とされ、神を父と呼べるのです。 祈りは、キリストに罪赦され、救われた者だけができることです。「父」は、愛し、養い、導き、守るお方であり、子にそのご性質、持っておられ る物を分与するお方です。神に「父よ」と祈れることは、特権なのです。 この祈りは、基本的に共同体の祈りです(3~5節)が、マタイ版のように「われらの父よ」でなく、ただ「父よ」と呼びかけるのは、同時に個 人の祈りでもあるからです。「私」を愛し、救って下さった父に祈るのです。 2.御名のための祈り(2b節) 次に、父なる神の御名のために祈ります。 「あがめられますように」とは、「聖なるものとされますように」の意味です。「聖」(ハギオス)とは、分離していることで、神の御名が他の ものとは違う、特別なものとして扱われますように、ということです。 それは、特にまず信者の内に行われるべきことです。神を特別な存在として信じ、最優先のお方としているでしょうか。自分の力よりも、神に 頼って祈っているでしょうか。みことばに信頼し、従っているでしょうか。 もちろん、不信者の間でも、まことの神が偶像と同じに扱われて良いわけがありません。彼らもまことの神を信じることは、私たちの願いです。 3.御国を求める祈り(2c節) 続いて、御国を求めて祈ります。 「御国が来ますように」とは、神の支配する神の国の実現を願う祈りです。そこにこそ、本当の平和、平安、救いの完成があります。 これは、世の終わりの神の国の実現を願う祈りです。同時に、今地上に神の国が部分的に実現することを願う祈りでもあります。マタイ版の「み こころの天になるごとく、地にも」は、そのような祈りと言えるでしょう。 御国が現在実現するというのは、神の支配を受け入れる人々が増えること、より多くの人が救われることです。また、さらに広い意味で、神のみ こころが地上になされていくことです。まず、自分自身神のご支配を受け入れているか、みこころをなす者となっているか、点検したいと思いま す。 4.日々の必要のための祈り(3節) これまでは神に関する祈りでしたが、ここからは人間の必要の祈りです。 「日ごとの糧を毎日」と願います。キリスト者は、一日一日を生きるものです。そして、その日その日の生活の必要のために祈るのです。主イエスは、一日の労苦は一日で十分だ と言われました(マタイによる福音書6諸王34節)。 「日ごとの糧」は、生活に必要なお金にも適用できます。また、霊的な力も日々必要です。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひ とつひとつのことばによるのです(マタイ四4)。生活設計は必要ですが、一寸先は闇なのが現実です。だから、一日、一日、愛の神に頼って生き るのです。 5.罪の赦しを求める祈り(4a節) 続いて罪の赦しを求める祈りです。「私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」と言う「負いめ」は、罪と同義語です。罪は、人間には 償いきれません。だからキリストの十字架による赦しを求めるのです。 「私たちも赦します」は、交換条件ではありません。真実に神の赦しを求める者は、自分も他者を赦します。また、本当に赦されたと信じる者 は、他の人を赦さないではいられません。 もちろん、人を赦すことは難しいことです。人を赦そうとしてその難しさを経験すると、主の十字架のすばらしさがわかり、自分がどれほど赦さ れているかわかります。そこから、本当の人を赦す生き方が始まるのです。 6.試みに会わないための祈り(4b節) 最後に、「試みに会わせないでください」と祈ります。 「試み」(ペイラスモス)は、人を鍛え上げるような適度な試練ではなく、 主イエスが荒野で受けられたような「試み」です。悪魔からの厳しい誘惑、極限の苦しみであり、キリスト者にとって信仰を捨てる恐れがあるほどのものです。終末には、特に大 きな試みがあります。私たちはへりくだって神の助けを求め、脱出の道を備えて下さるように祈るのみなのです。 とりなしの祈りにおいても、主の祈りはモデルとなります。まず主の祈りを覚え、それを自分にあてはめ、とりなす人にあてはめ、社会にあては めながら祈りたいと思います。 |
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