「この時代のためのしるし」(ヨナのしるし) KFG志木キ リスト教会 主任牧師 松木 充 牧師
|
|
キリスト教は、世間一般から見れば数ある宗教の一つでしょう。しかし私たちは、唯一の救いの道、永遠につながる道、まことの神へと行く道と 信じています。当然世の人は、「なぜキリスト教だけが本当なのか」と問うでしょう。「しるし」=証拠を見せてほしいというわけです。 この場面は、ベルゼブル論争(14節以下)から続いています。16節では「天からのしるしを求める者がいたと記されます。「ヨナのしるしの ほかには、しるしは与えられない」(29節)は、それへの答です。「しるし」とは、イエスが天から来られた救い主、キリストであることの証拠 としての奇跡です。なお、本箇所は、マタイによる福音書12章38~42節に並行記事があります。 これまで、さまざまなキリスト教弁証法が考案されてきました。神の存在、神の創造、キリストのメシアであること等々。それらの議論のほか に、イエスの名による奇跡を行う(行わなければならないと考える)人々もいます。しかし主イエスは、この悪い時代にはヨナのしるししか与えら れないと言われます。それは、悪い時代である今日にも通じることでしょう。 それでは、唯一与えられるヨナのしるしとは何でしょうか。 それは、 ①イエスの宣教、 ②イエスの復活、 ③教会の宣教と言えるでしょう。 1.イエスの宣教(30、32節) ヨナのしるしとは、主イエスの宣教です。 ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のためのしるしになると言われます(30節)。そして32節では、 「ヨナの説教」が言及されます。ヨナは、悔い改めるようニネベの人々に説教しました。直接的には、これがヨナのしるしと思われます。 「説教」(ケリュグマ)は、宣教とも訳されます。宣教の働きでもあるでしょうが、宣教のメッセージ、内容に重きがあるようです。ヨナのしる しとは、イエスの宣教であり、それは一言で言うなら「神の国」です。神は、イエス・キリストにおいて神の国を地上で開始されました。 もちろん、主イエスの宣教は、ことばだけで行われたのではありません。神の指で悪霊を追い出すという奇跡的な働きを通しても、神の国の福音 は現されました(20節)。主イエスの宣教こそが、この悪い時代に与えられた唯一のしるし、ヨナのしるしなのです。 イエス・キリストが今も生きておられることを示すため、奇跡を重んじる教派、グループもあります。しかし、主イエスのメッセージとお働きを 伝える聖書こそ、私たちが受け止めるべきしるし、イエスこそ救い主であることの証拠です。聖書が示すイエス・キリストご自身こそ、最大のしる しです。 今日イエス・キリストを信じて救われる人々は、すべて聖書のみことばに捕らえられた人々と言ってよいでしょう。 2.イエスの復活(29~30節) ヨナのしるしとは、イエス・キリストの復活です。 「与えられません」(29節)、「(しるしと)なるのです」(30節)は、原語のギリシャ語では、ともに未来形です。それは、ヨナのしるし がこれから与えられるということを意味しています。 マタイによる福音書12章38節~42節の並行記事では、「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中に いるからです」(同40節)と言われます。つまり、将来与えられるヨナのしるしとは、イエス・キリストの十字架・復活なのです。ここでは、特 に復活に重きがあるでしょう。 多分マタイは、ユダヤ人向けの福音書として、信じないユダヤ人にイエスが救い主である証拠としての復活を、旧約的根拠を詳しく示して伝えよ うとしました。ルカは、ソロモンにもヨナにもまさるイエス・キリストを信じない人々に対して、裁きを述べる方に力点を置いたのではないでしょ うか。 イエス・キリストの復活は、弟子たちが死をも恐れない信仰の原動力でした。彼らは復活のイエスを見ました。そして、それを新約聖書という形 で後世に伝えました。これがしるしです。 今も、イエス・キリストを信じた人々は、新しいいのちに生きています。 賛美「私の仕えまつる神は」の原歌詞は言います。「彼は生きている。彼は生きている。キリスト・イエスは今日も生きている。彼は私とともに人生の小道を歩み、語る」(He lives; He lives; Christ Jesus lives today. He walks with me and talks with me along life’s narrow way. . . .)。 3.教会の宣教(32~33節) ヨナのしるしとは、教会の宣教でもあります。それは、イエスの弟子たちから始まって、連綿と今日まで続いています。 「与えられません」(29節)、「(しるしと)なる」(30節)が未来形であることはすでに述べました。それは、これから起こるイエスの十 字架と復活に加えて、続く弟子たちの宣教をも意味するようです。というのは、すぐに33節で、あかりを燭台の上に置くたとえが語られるからで す。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めた。復活したイエス・キリストに救われた人々も宣教するのだ、それがヨナのしるしだ、ということなの でしょう。 続く34、35節は、あかりを掲げる人々自身、イエス・キリストとその福音で明るく照らされている必要について述べています。死からよみが えられたイエス・キリストをしっかりと見つめて光を受け続け、内に光が満ちている者が、キリストの光を掲げていけるのです。キリストを内に宿 す私たちもまた、復活のイエスとともに、現代の「ヨナのしるし」なのです! 先述「私の仕えまつる神は」の歌詞は、こう続けます。「彼は生きている。彼は生きている。救いを与えるために。どうして彼が生きているとわ かるかと君は問う。彼は私の心に生きている」(He lives; He lives salvation to impart. You ask me how I know He lives. He lives within may heart.)。内にいます復活の主とともに、現代のヨナのしるしとして生きましょう。 |
|