「新しく造られた者」(キリストにあるなら) KFG志木キ リスト教会 主任牧師 松木 充 牧師
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人間とは、すばらしいものです。しかし悲しいもの、罪深いものでもあります。自己主張、そこから出てくる争い。それは国際関係でも同じで す。 しかし聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と言います。キリストのうちにあるなら、つまり、キリ ストを信じてつながり、キリストとの信頼関係の中に生きるなら、私たちは神の新しい創造となるというのです。「古いもの」(タ・アルカイア) とは、「初め」(アルケー)からあったもの、最初のもの、前の時代のものです。それが過ぎ去ったのです。「キリストにある」ときに、神に造り 変えられて、キリストを信じる前とは全く違った者になったということです。 この手紙は、パウロによってコリントの信者たちに書かれました(五四、五年頃)。彼らの中には、罪、哲学的な考え方、党派心、競争心など、 キリスト者にとっては古いはずのものが多く残っていました。それがコリントの群の中でさまざまな問題を起こしていたので、この手紙が書かれま した。その意味では、キリストをこれから信じる人にも、すでに信じている人にも重要なメッセージと言えるでしょう。 それにしても、キリストを信じても同じ人に変わりはありません。「新しく造られた者」とは言いすぎではないかとも思います。なぜそこまで言 うのでしょうか。確かに私たちは、キリストによって根本的に新しくされます。 それは、 ①十字架・復活による新しいいのちにおいて(14b節)、 ②キリストにある新しい生き方において(14a、15、16節)、 ③新しい神との関係において(18~19節、21節)です。 1.十字架・復活による新しいいのち(14b節) 私たちは、キリストの十字架(と復活)によって新しいいのちが与えられます。それは永遠のいのちと言い換えてよいでしょう。 キリストの十字架には、罪の身代りの死という側面とともに、14b節では、キリストがすべての人ために死んだなら、キリストにあってすべて の人がキリストとともに死んだという十字架理解が語られます。つまり、犯した罪が赦されるとともに、罪を犯した人間そのものも、新しい者とし て生まれ変わるのです。キリストの十字架と復活こそが、罪を赦し、罪から解放して、人を新しい者として神の前に立たせて下さるのです。 イエス・キリストを信じて新しいいのち、永遠のいのちを与えられても、表面上はあまり変わって見えないかもしれません。しかし、内には永遠 の希望があります。永遠の神とつながって、いのちが注ぎ込まれています。 罪は徹底的に赦されます。同時に、私たち自身、罪に支配されたこれまでとは違う者として造り変えて下さるのです。キリストの十字架の恵み を、余すところなく受ける者でありたいと思います。 もちろん、肉体を持って生きる限り、弱さは残るでしょう。しかし、新しく造られたと信じてキリストのために生きることによって、罪を犯さな いように頑張る律法によってではなく、キリストからいのちを受けて、キリストをめざした新しい人生を歩むことができるのです。 2.キリストにある新しい生き方(14a、15、16節) キリストを信じて新しいいのちが与えられると、当然その人の生き方が変わってきます。 まず、神に、キリストに愛されている者として生きます(14a節)。さらには、自分のためではなく、キリストのために生きる者となります (15節)。 さらにパウロは、「人間的な標準で人を知ろうとはしない。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもう…」と言います (16節)。 「人間的な標準で」(カタ・サルカ)とは、「肉によって」が直訳です。罪に支配された、生まれながらの人間の性質をもって人をも、キリスト をも知ることはしない、と言っているのです。 聖書が啓示し、聖霊が私たちの心に示すキリストは、神の御子が人間となって地上に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられ た王の王、主の主、ただひとりの救い主です。そしてそれは、思想哲学ではなく、実際にキリストがゴルゴダの丘で十字架につけられ、三日目によ みがえられ、弟子たちに現れたという歴史的事実に裏付けられています。 この手紙を書いているパウロ自身、キリスト者たちを迫害しようとダマスコまで出かけて行って、そこで現れた復活のキリストに出会い、人生が 全く変わってしまいました。これまで知っていた、人間なのにメシアなどと称して神を冒涜する者、その信者がクリスチャン、という人間的標準で の知り方がくつがえされたのです。そして、本当のキリストを知ると、人との関わり方まで変わるのです。すべての人を、御子のいのちを犠牲にす るほど神に愛されている人として見るようになるのです。 3.新しい神との関係----和解(18~19節) 私たちは、神と新しい関係の中で生きます。すなわち、神と和解して生きます。 「これらのことはすべて、神から出ている」と言われます(18節)。キリストの十字架は、人を神と和解させるためですが、それは人の方から 手を差し伸べたのではありません。神に逆らう人間に対して、神から一方的に手を差し伸べ、御子イエス・キリストを与え、すべての人の罪を負わ せ、和解の道を備えて下さり、私たちを招いていて下さるのです。 そのような神からの和解の申し出は、まずキリストが地上に来られたことに現れています。そして、キリストによって神と和解した者たちを、和 解の使者としてほかの人々に遣わすことにも現れています(20節)。 神からの和解の申し出を受け、「新しく造られた者」としての歩みを始めてまいりましょう。 |
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