「福音の真理を保つ
」(パウロの福音の承認)
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「あなたが信じている福音は本当か?」と問われるとき、私たちはどう答えるだろうか。 パウロは、自分がキリストの啓示を受けた回心とその前後の体験から、自分の福音が神からの福音で、人から受けたものではないと主張した (一11~24)。その際、ケパ(ペテロ)とヤコブにしか会わなかったことと、ユダヤの諸教会がパウロの回心と宣教で神をあがめていたこ とに言及した(18~24節)。人が認めて神をあがめるほど、パウロは変えられたのである。 「それから(回心から?)十四年たって」パウロは再びエルサレムに上り、エルサレム教会のおもだった人たちは、パウロが異邦人への使徒 として立てられたと認めた(二1~10)。すなわち、前回のエルサレム訪問よりさらに公に、パウロがキリストに立てられた使徒であり、パ ウロが宣べ伝えている福音は正しいと認められた。 もちろん、エルサレム教会が認めたから真理だというのではない。神によるキリストの啓示だから真理なのである(一12、15~16)。 しかし、パウロの福音に反対する人たち(にせ兄弟、4節)がいたので、パウロは福音の真理を守るために戦った(2、5節)。そして、エル サレム教会のおもだった人たちは、パウロの福音を認めた。だからパウロは、自分の福音の真正さは、エルサレム教会も認めたものだと主張し ているのである。 もちろん今は、数々の異端との戦いを経て、正統的なキリスト教の教えは明確になっている。しかし、今日も福音の真理はチャレンジされ、 教義的にも、倫理的にも、実際的にも、妥協の危険はいつもある。 そのような中でも、私たちは、福音の真理を純粋に保ち、少しもこの世の考えに譲歩しない正しい福音を伝えていける。エルサレムでのパウ ロの戦いから学べるのは、①救われた者の存在、②主のみわざの認識、③救われた者の交わりによって、福音の真理は保てるということであ る。 1.救われた者の存在――テトス(3~6節) 福音の真理は、現実に救われた者の存在をもって保つことができる。 パウロは、エルサレムにテトスを連れて行った(3節)。 テトスはギリシャ人であったのに、割礼を強いられなかった。 テトスは、後にクレテの監督にされるほどの人物で(テトス一5)、パウロの伝道旅行の助手としても働き、特にコリント教会の問題の解決 には大きな働きをした(Ⅱコリント七6他、八16以下)。言うまでもなく、彼はアンテオケ教会か、その周辺の教会の出身者で、信者として よい証しを立てていた人なので、異邦人でもキリストへの信仰のみで救われた典型的な例として示すために連れて行ったのであろう。 そして、エルサレム教会のおもだった人たちは、誰もパウロの伝道に付け加えなかった。すなわち、割礼を受けることや、ユダヤ人の律法を 守ることをテトスに要求しなかった。(当然、キリスト者としての倫理的な生き方はある。それはパウロが書簡で教えている通りである。) 福音の真理は、その福音によって実際に救われた人によって保たれる。本当の救いをもたらす福音こそが本物である。私たち自身が、そのよ うな福音の証人であり、証拠である。 2.主のみわざの認識――ペテロとパウロ(7~8節) 福音の真理は、神のみわざを教会が正しく見極めることによって保たれる。 エルサレム教会のおもだった人たちは、パウロが、ユダヤ人への福音をゆだねられたペテロと同等の、異邦人への使徒として、キリスト御自 身に立てられたことを認めた(7~8節)。「割礼を受けた者」とは、言うまでもなくユダヤ人のこと、「割礼を受けない者」とは、異邦人の ことである。 「ペテロにみわざをなした方」は、神かキリストか明瞭でないが、ペテロがイエスの直弟子代表であったことや、ダマスコ途上のパウロの経 験からして、多分キリストを指しているのであろう。ペテロをお立てになったのと同じキリストが、パウロをも使徒としてお立てになったと認 めたのである。 本当のキリストの働きと、そうでないものを識別することは大切である。今日もいろいろなことを言う人たちがいる。聖書を絶対的な規準と して、かつ柔軟で謙虚な姿勢をもって、神の働きを識別していきたい。 3.救われた者の交わり――パウロと使徒たち(9~10節) 福音の真理は、同じ福音を持つ人々の交わりによって保たれる。 エルサレム教会の中心であるヤコブとケパとヨハネは、パウロとバルナバに「交わりのしるしとして右手を差し伸べ」た(9節)。それは、 交わりとともに、協力のためでもあった。パウロたちは異邦人に、彼らはユダヤ人に宣教するためである。(「割礼を受けた者」という表現が 多用されるのは、多分割礼が議論の中心だったからであろう。) もちろんパウロは、伝道旅行で、その土地のユダヤ人にも伝道した。ペテロも、後にはローマで異邦人にも宣教した。これは、おおまかな取 り決めで、すべての人に福音が伝わるための協力態勢を整えたのである。パウロは、伝道旅行ごとにエルサレムに立ち寄っている。成果を報告 し、ともに御名をあがめ、さらに祈り合うためであろう。 そのような交わりと協力は、貧しい人たちを顧みることにも表われている(10節)。バルナバとパウロは、エルサレム教会が飢饉で苦しい 時に、アンテオケから救援物資を持って行った(使徒一一27以下。ここでは、このエルサレム訪問が本箇所の訪問と考えている)。後にパウ ロは、三回の伝道旅行で立てられた異邦人教会から献金を集め、エルサレム教会に届けている。 救われた者たちが互いに交わり、助け合い、福音のために協力することは、福音の真理が保たれ、伝えられるために重要である。教会の中で も、教派間でも、交わりと協力を深め、福音の真理を保ち、伝えていきたい。 |